アメリカのハイスクールで過ごしていた頃、今でもよく覚えている行事があります。
それが「アワードナイト(Awards Night)」と呼ばれる、科目別表彰式のような夜でした。
一年の授業がひと段落したタイミングで、体育館や講堂に生徒と保護者が集まります。
英語、数学、歴史、理科、芸術、体育……各教科の先生が壇上に上がり、マイクを持ってこう言うのです。
「今年度、このクラスで◯◯という科目に最も貢献してくれた生徒は...」
そして、一人ひとりの名前が読み上げられ、拍手の中で表彰されていきます。
日本の感覚で言えば、「学年成績優秀者の表彰」と「先生個人からの推し生徒表彰」が混ざったような時間です。
もちろん、選ばれるからには成績は良い。
テストも課題もきちんとこなし、成績表の評価も高い。これは前提条件です。
ただ、アワードナイトを見ていると、成績表だけでは測れない「別の軸」があることに気づきます。
たとえば、
授業中によく質問をしてくれた生徒。
難しいテーマにも食らいつき、沈みがちな空気を変えてくれた生徒。
最初はつまずいていたのに、学期の後半にかけて一気に伸びてきた生徒。
その科目を「好きでいよう」とする意思が、先生に伝わっていた生徒。
先生の口から語られるエピソードを聞いていると、
「この子はテストの点が一番高かったから選びました」
という話は、実はあまり出てきません。
それよりも、
「この生徒はクラス全体の学びを前に進めてくれた」
「この生徒の姿勢が、この一年のこのクラスを象徴している」
という「物語」が添えられることが多いのです。
優秀な成績であることは間違いない。
でも、評価されているのは「点数」だけではなく、その教科に向き合う姿勢、クラスに与えた影響。
先生から見たときの「この一年を代表する存在」としての側面なのだと、後になってから気づきました。
日本の学校でも、成績優秀者や皆勤賞の表彰はあります。
しかし多くの場合、それは数字や出席日数といった客観的指標に紐づいた賞です。
アメリカのアワードナイトが少し違うのは、
「誰の目線からの優秀さなのか」
が、はっきりしている点です。
それは、
「先生の目から見て、この科目、このクラスにとって特別な存在だった生徒」
という、きわめてパーソナルな評価です。
だからこそ、選ばれた生徒にとっては、
単なる学力の証明ではなく、
「あなたを一年間、ちゃんと見ていましたよ」
という、まなざしそのものの表明になります。
表彰される側はもちろんうれしい。
しかし、見ているこちらにも、評価とは本来こういうものなのかもしれませんと考えさせる時間でした。
この経験を振り返ると、日本社会や日本企業の評価と自然に重なってきます。
日本では、どうしても評価基準をできるだけ客観化しようとします。
売上、利益、KPI、勤続年数、資格取得などの指標が評価の要素を占めます。
ただ一方で、アワードナイトの先生たちのように、
「この一年、自分は誰を“名前で”称えられるだろうか」
「数字には表れないけれど、このチームを前に進めてくれたのは誰だったか」
と問い直す視点は、意外と抜け落ちやすいのかもしれません。
ビジネスの現場であれば、上司や経営者が、
「このプロジェクトを象徴していたのは◯◯さんです」
「数字以上に、チームの空気を変えてくれたのは△△さんでした」
と名前を挙げるイメージに近いでしょう。
人は、数字で測られるよりも、
名前で呼ばれるときに、はじめて「見てもらえた」と感じます。
海外と付き合う、あるいは海外とビジネスをする、というと、
つい英語力や契約実務、文化の違いに目が向きがちです。
しかし実際には、この社会では、誰が、誰を、どのように称えるのかという「評価文化の違い」も、かなり大きなギャップを生みます。
アメリカでは、個人名を挙げて称える場面が多く、その際にどんな物語がその人に紐づけられているかが重視されます。
日本では、チーム単位や部門単位の表彰が多く、個人を前面に出すことに、どこか遠慮が働くことも少なくありません。
評価のされ方・称えられ方が違えば、
人の動き方やモチベーションの上がり方も変わってきます。
アワードナイトの記憶を振り返るとき、
私がいつも思い出すのは、選ばれた生徒の顔だけではありません。
壇上で一人ひとりの名前を読み上げ、
その生徒の一年を短い言葉で紹介していた先生たちの姿です。
彼らは単に優秀な生徒を選んでいたのではなく、
この一年、自分が教えてきた世界の中で、誰がどんな意味を持っていたのかを、改めて言語化していたのだと思います。
評価とは、本来そういう作業なのかもしれません。
数字をつけることだけが評価ではない。
名前を呼び、その人の物語を言葉にすることも、立派な評価の一つです。
海外とビジネスで向き合うとき、
私たちはしばしば成果指標をそろえようとします。
もちろんそれも大事ですが、
「このパートナーの、どこを尊敬していて、なぜ一緒に仕事をしたいのか」
という物語としての評価を言葉で伝えられるかどうかも、信頼関係をつくるうえで、実は同じくらい重要です。
アメリカの高校の、一夜限りのアワードナイト。
そこで見た「評価」と「まなざし」のかたちは、
いまも私に、人をどう見るか、どう称えるか、を問い続けています。
評価とは、点数をつけることではありません。
「あなたをちゃんと見ていましたよ」という、まなざしの言語化なのです。
■ あなたの「物語」、誰かに話せていますか?
現代の日本の職場では、どうしても「数字」や「成果」ばかりが求められがちです。
「プロセスを見てほしい」
「結果には出なかったけれど、踏ん張った瞬間があった」
そんな、あなたの本当の頑張り(物語)が、置き去りにされてはいないでしょうか。
もし、職場や家庭で「誰も見てくれている気がしない」と孤独を感じることがあれば、ぜひ私にお話ししに来てください。
私は元商社マンとして、あるいは一人の人生の先輩として、あなたの話を「評価」するためではなく、
「一人の人間の物語」として、しっかりとお聴きします。
数字から離れて、あなた自身の言葉で。
電話の向こうで、お待ちしております。