書きあぐねる作家の髙橋P.モンゴメリーの今日のエッセイを書いてみようとネタさがす。でも、そんなものは暮らしの中でたくさん落ちていた。そんなエッセイ。

記事
コラム
今日のエッセイを書いてみようと思った。
そう思ったところまでは、とてもよかった。
問題は、そのあとである。
書くことがない。
本当に、何も浮かばない。
今日という一日を思い返してみても、誰かに胸を張って話せるような出来事はなかった。
大きな感動もない。
劇的な事件もない。
人生がひっくり返るような出会いもない。
玄関を開けたら、見知らぬ紳士が立っていて「あなたにだけ伝えたい秘密があります」と言ってくることもない。
冷蔵庫の奥から、十年前の自分が書いた手紙が出てくることもない。
炊飯器が急に人間の言葉を話し出して、人生相談に乗ってくれることもない。
ただ、朝が来て、昼が過ぎて、夕方になった。
それだけだった。
でも、その「それだけ」を、僕はずいぶん雑に扱っていたのかもしれない。
何もなかった日。
そう言ってしまえば簡単である。
言葉にすれば、たった八文字くらいで片づいてしまう。
けれど、本当に何もなかったのだろうか。
ただ僕が、ちゃんと見ていなかっただけではないのか。
今日の僕は、エッセイのネタを探していた。
どこか遠くにあると思っていた。
特別な場所に行けば見つかると思っていた。
珍しいものを見たり、誰かと印象的な会話をしたり、胸に残る出来事が起きたりしないと、エッセイなんて書けないと思っていた。
けれど、よく考えてみると、暮らしはそんなに大げさではない。
たいていの日は、もっと静かに始まる。
朝、目が覚める。
布団の中で、しばらく動かない。
起きなければいけないことはわかっている。
でも、起きるという行為には、毎回ほんの少しだけ勇気がいる。
大げさに聞こえるかもしれない。
けれど、布団の中にいる自分と、布団から出る自分の間には、小さな川が流れている。
その川を渡るのが、朝である。
僕は今日、その川をなんとか渡った。
それだけでも、ひとつの出来事だったのかもしれない。
カーテンを開ける。
外が見える。
見慣れた景色がそこにある。
見慣れているから、何も感じない。
でも、見慣れているということは、何度も見てきたということだ。
何度も見てきたから、安心して見落とせる。
そんな景色が、誰にでもあるのかもしれない。
毎日通る道。
いつもの電線。
向かいの家の壁。
空の色。
少し傾いた自転車。
そういうものは、いちいち心を震わせたりしない。
けれど、なくなったらきっと気づく。
あれ、ここにあったものがない。
そのとき初めて、僕らは見ていたことに気づく。
見ていないつもりで、ちゃんと見ていたものが、暮らしの中にはたくさんある。
僕は机に向かった。
机の上には、ペンがあった。
昨日もそこにあった。
たぶん、おとといもそこにあった。
そのペンは、僕に何も言わなかった。
早く書けよ、と急かすこともない。
まだ書けないのか、と責めることもない。
作家を名乗るなら少しは働いたらどうだ、と皮肉を言うこともない。
ただ、そこにあった。
僕はその静かさに、少し救われた。
人は、何かを急かされると苦しくなる。
早く結果を出せ。
早く変われ。
早く元気になれ。
早くちゃんとしろ。
早く書け。
早く売れ。
早く認められろ。
そういう声は、外からも来る。
けれど、本当にしんどいのは、自分の中から来る声だったりする。
僕はいつも、自分にだけ少し厳しすぎる。
他人には「無理しなくていいよ」と言える。
他人が疲れていたら「今日は休んだほうがいいよ」と言える。
他人が立ち止まっていたら「そういう日もあるよ」と思える。
それなのに、自分が立ち止まると、すぐに焦ってしまう。
どうして進めないのか。
どうして書けないのか。
どうして今日をもっとちゃんと使えなかったのか。
どうして同じところをぐるぐるしているのか。
そんなふうに、自分を責める言葉だけは、なぜかすぐに出てくる。
出てこなくていいときほど、よく出てくる。
机の上のペンは、そんな僕を見ている。
いや、見てはいない。
ただ置かれているだけである。
けれど、その「ただ置かれているだけ」に、僕は少し救われた。
書ける日も、書けない日も、同じ顔でそこにいる。
使われる日も、忘れられる日も、文句を言わずにそこにいる。
たぶん、やさしさというのは、そういうものなのかもしれない。
無理に励まさない。
急かさない。
できない理由を問い詰めない。
でも、いなくならない。
僕は、そんなふうに誰かのそばにいられただろうか。
そして、自分自身に対して、そんなふうにいられただろうか。
自分を励ますことは、意外とむずかしい。
やさしい言葉をかけようとしても、どこか白々しくなる。
「大丈夫」と言っても、心の奥では「本当に?」と思ってしまう。
「よくやっている」と言っても、「いや、まだ足りない」と返してしまう。
自分という相手は、なかなか手ごわい。
こちらの言葉の裏まで読んでくる。
けれど、それでも今日は、自分に少しだけ言ってみたい。
まあ、ここまで来たじゃないか。
立派ではないかもしれない。
完璧ではないかもしれない。
でも、今日も机の前に座った。
書こうとした。
書けないと思いながら、逃げ切らずに考えていた。
それは、何もしていないこととは少し違う。
台所へ行くと、流しにコップがひとつあった。
洗えばいい。
本当に、それだけの話である。
水を出して、スポンジを持って、泡をつけて、すすげば終わる。
おそらく三十秒もかからない。
それなのに僕は、少しだけ後回しにした。
あとでいいか。
この「あとでいいか」という言葉は、暮らしの中に何度も出てくる。
洗い物にも出てくる。
返信にも出てくる。
片づけにも出てくる。
爪切りにも出てくる。
本の続きを読むことにも出てくる。
小説にも出てくる。
エッセイにも出てくる。
人生にも、たぶん出てくる。
そして、だいたいの「あとでいいか」は、あとで少し大きくなって帰ってくる。
コップひとつだったものが、皿になり、箸になり、鍋になり、流し全体の沈黙になる。
暮らしは、先延ばしにしたものを忘れてくれない。
意外と几帳面である。
ちゃんと覚えている。
ここに置きましたよね。
あとでやると言いましたよね。
そんな顔をして、静かに待っている。
でも、僕は思った。
後回しにしてしまう自分も、そんなに悪いやつではないのかもしれない。
疲れていたのかもしれない。
少し休みたかったのかもしれない。
何もしていないように見えて、心のどこかで何かを抱えていたのかもしれない。
人は、見えている行動だけではわからない。
洗い物を残した人にも、その人なりの一日がある。
返事が遅い人にも、その人なりの事情がある。
約束を少し先延ばしにした人にも、言葉にできない疲れがあるかもしれない。
もちろん、全部を許せるわけではない。
迷惑をかけていいという話でもない。
ただ、すぐに責める前に、ほんの少し想像してみることはできる。
自分にも。
他人にも。
その少しの想像が、やさしさの入口なのかもしれない。
僕は、流しのコップを見ながら、そんなことを考えていた。
コップひとつで、ずいぶん大げさな話になった。
でも、暮らしというのは、だいたいそういうものだ。
大きなことを考える入口は、いつも小さい。
洗い物。
靴下。
買い忘れ。
読みかけの本。
少し冷めたお茶。
そういうものが、考えごとの扉になる。
僕はコップを洗った。
たったそれだけなのに、少しだけ部屋の空気が変わった気がした。
本当に変わったのかどうかはわからない。
でも、少なくとも僕の中の何かは、少しだけ片づいた。
暮らしの片づけは、心の片づけとどこかでつながっている。
全部をきれいにする必要はない。
全部を完璧に整える必要もない。
ただ、コップひとつ洗うだけで、少しだけ戻ってこられる場所がある。
そういう小さな回復を、僕はよく見逃している。
机に戻る。
スマホを見る。
何も来ていない。
また置く。
しばらくして、また見る。
やっぱり何も来ていない。
この行為を、僕は今日、何度しただろう。
数えたら少し落ち込む気がするので、数えないことにする。
スマホを見るたびに、僕は何かを待っている。
連絡かもしれない。
反応かもしれない。
誰かの言葉かもしれない。
自分がここにいることを、誰かに少しだけ確認してほしいのかもしれない。
人は、自分ひとりで立っているような顔をしながら、案外、誰かの反応に支えられている。
いいねがついた。
コメントが来た。
読まれた。
返事があった。
その小さな出来事で、今日は少しましだったと思えることがある。
それは弱さなのかもしれない。
でも、弱さだけではないと思う。
人が人を必要とするのは、そんなに恥ずかしいことではない。
ただ、少しだけ気をつけたい。
誰かの反応がない日を、自分の価値がない日だと思わないこと。
読まれなかった文章を、存在しなかった文章みたいに扱わないこと。
返事が来ない時間を、自分が忘れられた証拠みたいに決めつけないこと。
人には、それぞれの暮らしがある。
それぞれの流しに、コップがある。
それぞれの机に、片づいていないものがある。
それぞれの胸に、言えない疲れがある。
だから、反応が遅い日もある。
言葉にできない日もある。
誰かを好きでいる余裕すら、少し足りない日もある。
そう思うと、少しだけ人にやさしくなれる。
そして同じぶん、自分にもやさしくなれる。
外に出た。
風があった。
特別に美しい風ではない。
ただの風である。
けれど、その風が頬に触れたとき、僕は少しだけ力が抜けた。
今日も世界は、僕が書けなくてもちゃんと動いている。
僕が焦っていても、道端の草は勝手に揺れている。
僕がうまくいかないと思っていても、どこかの家では夕飯の匂いがしている。
僕の悩みを知らないまま、鳥は電線にとまっている。
それは少し寂しいことでもあり、少しありがたいことでもある。
世界は、こちらの失敗をいちいち大事件にしない。
僕が今日うまく書けなかったことも、コップを後回しにしたことも、スマホを何度も見たことも、少し落ち込んだことも、世界は大げさには責めない。
責めているのは、案外、自分だけなのかもしれない。
道端に、小さな草が生えていた。
名前は知らない。
知らないまま通り過ぎてきた草だ。
たぶん昨日もそこにあった。
明日もそこにあるかもしれない。
でも僕は今日、少しだけそれを見た。
それだけで、草は今日のネタになった。
名前を知らないものは、暮らしの中にたくさんある。
草の名前。
鳥の名前。
雲の形。
近所の家から漂ってくる夕飯の匂いの正体。
自分の中にある、説明しづらい寂しさの名前。
名前を知らないから、ないことになるわけではない。
むしろ、名前を知らないものほど、僕らの毎日に静かに混ざっている。
エッセイを書くということは、それに無理やり立派な名前をつけることではないのかもしれない。
ただ、気づくこと。
あったな、と言うこと。
今日は、これを見た。
今日は、これが少し気になった。
今日は、これに少し救われた。
それだけでいいのかもしれない。
スーパーにも行った。
特に買うものが決まっていたわけではない。
いや、決まっていたような気もする。
でも、店に入ると少し忘れる。
スーパーという場所は、記憶を試してくる。
何を買いに来たんだっけ。
そう思いながら、棚の前を歩く。
野菜が並んでいる。
惣菜が並んでいる。
豆腐が並んでいる。
見切り品のシールが貼られたものもある。
そこには、暮らしの時間がある。
誰かが買うかもしれなかったもの。
でも、まだ買われていないもの。
今日のうちに誰かの食卓へ行くかもしれないもの。
行けないかもしれないもの。
スーパーの棚は、静かだけれど、どこか人間くさい。
値引きシールを見ると、少し考える。
安いから買うのか。
食べたいから買うのか。
救出するような気持ちで買うのか。
ただ、得をした気分になりたいのか。
たかが惣菜ひとつで、心はいろいろ動く。
僕は棚の前で少し迷った。
買おうか。
やめようか。
今夜、本当に食べるだろうか。
明日に回したら、また「あとでいいか」の仲間になるのではないか。
そんなことを考えているうちに、隣で別の人が手早く商品をかごに入れていった。
その人には、その人の夕飯がある。
その人の家がある。
その人の今日がある。
僕はその人のことを何も知らない。
でも、同じ棚の前に一瞬だけ立っていた。
それだけで、少し不思議な感じがした。
暮らしは、知らない人たちの暮らしとすれ違ってできている。
レジに並ぶ。
前の人のかごを見る。
見てはいけないような気もするけれど、見えてしまう。
牛乳。
パン。
納豆。
お菓子。
惣菜。
その組み合わせだけで、その人の生活を勝手に想像しそうになる。
もちろん、想像はたいてい外れる。
でも、想像すること自体は、悪いことではない気がする。
この人も今日を生きている。
この人にも帰る場所がある。
この人にも、疲れている日がある。
そう思うと、少しだけ世界の角が丸くなる。
レジの人が商品を通す。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
その音は、どこか今日の句読点みたいだった。
僕の一日が、少しずつ区切られていく。
買ったものを袋に入れる。
袋の中は、それほど立派なものではない。
けれど、今日の夜をなんとかするには十分だった。
人生を劇的に変えるものは入っていない。
でも、空腹を満たすものは入っている。
それは、思っているより大事なことだ。
帰り道、空が少し暗くなっていた。
夕方というのは、いつも少しやさしくて、少し意地悪だ。
一日が終わっていく感じがする。
まだ何かできたのではないか、という気持ちが出てくる。
今日をうまく使えなかったような気がしてくる。
朝にはあったはずの時間が、いつのまにか減っている。
誰が盗んだわけでもない。
自分で使ったのだ。
ぼんやりしたり、迷ったり、スマホを見たり、コップを後回しにしたり、スーパーで惣菜を迷ったりして、ちゃんと使ったのだ。
それを「無駄」と言うのは簡単だ。
でも、本当に無駄だったのだろうか。
ぼんやりした時間の中で、心は呼吸していたのかもしれない。
迷った時間の中で、自分の気分を確かめていたのかもしれない。
スマホを見た時間の中で、誰かとのつながりを探していたのかもしれない。
後回しにした時間の中で、少しだけ休んでいたのかもしれない。
無駄に見える時間にも、何かしらの理由がある。
それを全部、怠けだと決めつけるのは、少し乱暴なのかもしれない。
家に帰る。
袋を置く。
少し息をつく。
この「少し息をつく」という時間も、暮らしには必要だ。
何かを買ってきたら、すぐ片づければいい。
すぐ調理すればいい。
すぐ次の作業に移ればいい。
そう思う。
でも、帰ってきた人間には、帰ってきた人間の時間がいる。
外から内へ戻る時間。
靴を脱いだだけでは、まだ心は帰ってきていない。
袋を置いて、手を洗って、部屋の空気を吸って、ようやく少し戻ってくる。
人は、そんなに素早く切り替われない。
切り替われない自分を、僕はよく責めていた。
でも、切り替えには時間がかかる。
それは悪いことではない。
人間には、人間の速度がある。
冷蔵庫に買ったものを入れる。
それだけで、少し未来に手を伸ばした気がする。
明日食べるもの。
あとで使うもの。
今夜のためのもの。
冷蔵庫の中にものを入れるというのは、少しだけ明日を信じる行為なのかもしれない。
大げさかもしれない。
でも、暮らしは大げさに見れば、案外ちゃんと意味を持つ。
夜になる。
部屋の明かりをつける。
机の上のペンが、まだそこにある。
一日を過ごして戻ってきても、ペンは何も変わっていない。
でも、僕のほうは少し変わっている。
朝には書くことがないと思っていた。
けれど、夜になってみると、書けそうなことがいくつもある。
机のペン。
流しのコップ。
スマホを見てしまう自分。
外の風。
名前を知らない草。
スーパーの棚。
レジの音。
帰り道の空。
冷蔵庫にしまった明日の食べ物。
どれも特別ではない。
誰かに自慢できる出来事でもない。
けれど、今日の僕の一部だった。
何もなかった日ではなかった。
何かは、ちゃんとあった。
ただそれが、あまりにも近くにありすぎて、僕が見落としていただけだった。
エッセイのネタは、どこか遠くに落ちているものではない。
旅先の海辺だけにあるわけではない。
特別な人との会話だけにあるわけでもない。
泣くほど感動した瞬間だけにあるわけでもない。
もっと手前にある。
机の上にある。
流しにある。
帰り道にある。
買い物袋の中にある。
自分の小さな迷いの中にある。
誰にも見せない疲れの中にある。
そして、書けないと思っていた時間の中にもある。
書けない時間は、ただの空白ではない。
その時間の中で、言葉になる前のものが沈んでいる。
すぐに取り出せないだけで、何もないわけではない。
井戸の水みたいに、少し待たないと見えてこないものがある。
僕は、すぐに答えを出したがる。
すぐに形にしたがる。
すぐに投稿したがる。
すぐに結果を見たがる。
でも、心はそんなに早く動かない。
言葉も、そんなに急いで出てこない。
出てこない日には、出てこないだけの理由がある。
その理由を、怠けだと決めつけないでいたい。
誰かの沈黙にも、同じように理由があるのだと思う。
明るく返事をくれない日。
いつものように笑ってくれない日。
少し距離を感じる日。
そんなとき、すぐに不安になる。
嫌われたのだろうか。
何か悪いことをしたのだろうか。
もう自分は必要ないのだろうか。
心はすぐに、悪いほうへ物語を作る。
でも、相手にも一日がある。
見えないコップがある。
後回しにした洗い物がある。
まだ言葉にできない疲れがある。
誰かにやさしくなるというのは、相手の事情を全部わかることではない。
わからないまま、決めつけないことなのかもしれない。
そして、自分にやさしくなるというのも、自分のことを全部許すことではない。
できなかった理由を、少しだけ聞いてあげることなのかもしれない。
なぜできなかったのか。
本当に怠けただけなのか。
疲れていたのか。
怖かったのか。
迷っていたのか。
大事にしたかったから、簡単に始められなかったのか。
そうやって少し聞いてみる。
責める前に、聞いてみる。
それだけで、心の中の空気は少し変わる。
僕は今日、エッセイのネタを探していた。
でも、探しているうちに気づいた。
ネタは、暮らしの中にたくさん落ちていた。
ただ僕が、それを「たいしたことではない」と思っていただけだった。
たいしたことではない一日。
でも、たいしたことではない一日を、誰かは必死に生きている。
何もなかったように見える日にも、人はちゃんと疲れる。
何も成し遂げていないように見える日にも、人はちゃんと迷っている。
笑っている日にも、少し無理をしていることがある。
黙っている日にも、心の中では言葉が渋滞していることがある。
だから僕は、少しだけやさしくなりたいと思った。
すぐに立派な人間にはなれない。
大きな愛を語れるほど、できた人間でもない。
いつも穏やかでいられるわけでもない。
腹が立つ日もある。
面倒くさい日もある。
誰かの言葉に傷ついて、しばらく根に持つ日もある。
それでも、せめて、自分の今日を雑に扱わない人でいたい。
そして、誰かの今日も、簡単に決めつけない人でいたい。
机のペンは、今日もそこにあった。
流しのコップは、洗えばきれいになった。
外の風は、何も言わずに頬を通り過ぎた。
スーパーのレジは、いつも通り音を立てた。
世界は、僕を特別扱いしなかった。
でも、責めもしなかった。
その普通さに、少し救われる。
普通の日は、ときどき冷たい。
でも、ときどきやさしい。
こちらが大げさに落ち込んでいても、普通に夜は来る。
普通にお腹は空く。
普通に明日の準備が必要になる。
それは残酷でもある。
でも、ありがたくもある。
生きるということは、たぶん、そういう普通に何度も戻ってくることなのだと思う。
今日の自分に、ひとつだけ言っておきたい。
よくやった、までは言えなくてもいい。
胸を張れ、までは言えなくてもいい。
でも、ここまで来たね、くらいは言ってもいい。
朝を越えて、昼を越えて、夕方を越えて、夜まで来た。
書けないと思いながら、書くことを諦めきれなかった。
何もないと思いながら、何かを拾おうとした。
それは、思っているよりずっと大事なことだ。
そして、そのくらいのやさしさなら、僕にも持てる気がする。
今日も何もなかった。
そう言い切るには、今日という日は、少しだけあたたかすぎた。
何もない日にも、ペンはあった。
コップはあった。
風はあった。
草はあった。
スーパーの明かりはあった。
レジの音はあった。
帰り道の空はあった。
そして、それを見ていた僕がいた。
だから、今日をなかったことにはしない。
うまく書けなかった日も。
思うように進まなかった日も。
誰にも褒められなかった日も。
少しだけ自分にがっかりした日も。
その全部を、今日という一日の中に置いておく。
雑に捨てない。
無理に飾らない。
ただ、ここにあったものとして、そっと拾っておく。
書きあぐねる作家には、書きあぐねる時間もまた、ちゃんとネタになる。
何もない日を、何もなかったと決めつけないために。
今日の僕は、今日の暮らしを少しだけ書いておく。
それは立派な記録ではない。
大きな告白でもない。
ただ、今日を生きた人間が、今日を少しだけ許すための文章である。
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