落ち着いた雰囲気のカフェに足を踏み入れたMARIは、まるで常連客のように迷いなく奥の席を選んだ。そこはSHIHOに教えてもらった場所だったが、彼女はまるで自分の秘密基地かのように振る舞った。
その後ろを、AYUMIが静かに歩いてくる。彼女もまた、何の違和感もなくその空間に馴染んでいた。二人の足音は、店内に流れるジャズの旋律に吸い込まれ、すぐに消えていく。
年齢が近いこともあり、会話の中で自然と下の名前で呼び合うようになっていた。照明は柔らかく、木製のテーブルや椅子が温かみを醸し出している。外の窓には夕暮れの光が反射し、忙しない街の風景がぼんやりと映っていた。だがこのカフェの中だけは、まるで別の世界のように静寂だった。
MARIは、その静けさにどこか苛立ちを感じていた。
「これ、美味しいのよ。」
自信に満ちた声音で、MARIはメニューを指し示す。示したのは、トマトとバジルのパスタ。どこか誇らしげなその様子に、AYUMIは穏やかな微笑みで応じた。
「じゃあ、それにしようかな。」
その笑顔には、MARIのように他人の評価を気にするそぶりは微塵もなかった。ただ、そこに在ることが自然であるかのような、無理のない存在感。
注文が済み、料理が運ばれるまでの間、二人は取り留めのない会話を交わした。時折、ふっと沈黙が訪れるが、AYUMIはそれを気にも留めない様子で、むしろその間に心を休めているようだった。
やがて、MARIがふと口を開く。
「ねえ、AYUMIの面接ってどんな感じだったの?」
AYUMIは少し考えてから、静かに言った。
「私らしくいられたかな。」
それだけの言葉。だがその一言の裏に、MARIには理解しきれない「何か」があると直感した。
(私にはわからない何かがある――。)
胸の奥に、小さな痛みがじわりと広がる。
「そうなんだ。」
MARIは笑顔を作った。
「私はね、『君は本当に優しいね』って言われたの。それを聞いたとき、涙が溢れたの。」
その語り口には、どこか見せびらかすような響きがあった。AYUMIがその言葉に何を思うのか、MARIは無意識に測ろうとしていた。
「MARIはすごいね。」
AYUMIは、あくまで自然な口調で言う。
「あの人の隣で堂々といられるんだもん。」
称賛とも、慰めとも取れるその言葉に、MARIは返す言葉を見失う。
少しして、AYUMIがぽつりとつぶやいた。
「でもね。あの人、今日ちょっと変だった。」
「変って……どういう意味?」
MARIは眉をひそめる。
「本当はもっと自然に笑う人なのに、なんだか無理してるように見えた。」
「そうなの?」
MARIは軽く笑ってみせた。
「私には普通に見えたけど。」
その笑みの裏で、何かに置いていかれたような焦りが、じわじわと燻り始める。
「たぶん、私たちのどちらかに合わせていたのかもね。」
AYUMIのその言葉は、どこか遠くを見据えていた。
MARIは口を閉ざした。脳裏には、以前NATSUに言われた言葉が浮かぶ。
――彼の信頼する女性たちは、彼を理解し、彼を最優先に考える。
(なぜ?)
理解できない。自分を優先しない生き方なんて、これまで考えたこともなかった。
AYUMIの声が、再び静かに響いた。
「私の愛で、あの人を助けたい。でも、彼は私の手の届かない場所にいるの。さらに別の次元へ行こうとしてる。」
その言葉に、MARIは思わず息を呑んだ。
「命懸けで。」
その一言の重みが、カフェの柔らかな空気さえ揺らしたように感じた。
(狂気の人――。)
心の中でそう呟きながらも、MARIにはAYUMIの言う「愛」の輪郭が見えてこなかった。なぜそこまで彼を想うのか。なぜ、彼のそばにいながら、彼の会社に入社しないのか。
(わからない。)
その思考は、MARIにとって未知の領域だった。
カフェの窓の外では、空が紫色に染まりながら、夜の帳を落としていく。
「そろそろ行こうか。」
AYUMIが静かに立ち上がる。MARIも、何かに導かれるようにそれに続いた。
「またね。」
その言葉が、妙に遠く感じられた。
まるで、もう交わることのない未来に向けた、最後の挨拶のように。