詩小説「カフェ・マジックアワー」後編

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 カフェ・マジックアワー (後編・完結)

    智(とも)



 やがて青年は最上階に着いたようだった。階段がとぎれていた。上へと向かう手段はもうどこにもない。がらんどうの、船の甲板を連想させる、赤みがかったデッキに立っていた。建物の白い壁面が右手につづいている。窓のひとつもない。だが、のっぺりとしたその壁に、みどり色に塗られた扉が嵌めこまれている。このドアから店内へ入れるのだろうか。たぶんそうなのだろう。そうとしか解釈のしようがない。木製の重厚な扉だった。なかほどから下には、地図のようにも見える細工がほどこされている。近くまで寄ると、それは精巧なものであることがわかった。青年は、ひやりとする真鍮の取っ手に指をかけた。右にまわし、ゆっくりと引いてみる。扉はわずかにきしんだが、簡単にひらいた。 
 そこはカフェの店内ではなかった。
 豊かな樹木に周囲をとりかこまれる草原だった。人影はない。注意ぶかく見わたしても、だれひとりとしていない。なんの物音もしない。黄色いひざしが草地一面に密やかにふっている。カフェに入ってからずいぶんと時間がたったようで、夕暮れがそれほど遠くないことを知らせる空だった。
 草原のさきには湖があった。鏡となった湖面だ。そこに空が映り、雲が映り、逆さになった岸辺の木々が同じ数だけ水のなかに立っている。水彩絵の具を溶かした色合いで立っている。細かなひかりが鏡面でちかちかとまたたいている。
 ひかりのちらつきと重なる手前の水ぎわには、手漕ぎボートが一艘、なかばシルエットとなって浮かんでいた。浮かんでいるのが認められる。二人くらいしか乗れないサイズの舟だった。
 白い花がまばらに咲く草原を青年は歩いていく。前方に目をあげると、右から左へ、くさはらをわたっていく風が見えた。緑のかぐわしさも運ばれている。花の匂いも鼻さきで円いかたちをつくってきえていく。はちみつにも似た甘い香りだった。白い花をできるだけ踏まないように気をつけ、草原をすすんだ。湖にたどりついた。純白の小舟。ロープでつながれている。日光が、へりのかたちのままにとまっている。ロープをとく。両腕をひろげてバランスをとりながら、舟に片足をかける。靴の裏に、水の感触が生々しく来る。すばやく乗りこむ。水面に波紋がひろがる。
 シートに腰かけた。尻の位置を定めなおす。慣れない手つきでオールをにぎる。昼間のひざしの暖かみがまだ残っていた。舟をこぐ。水をかく重みが前腕につたわってくる。すずをふるような水音がかろやかに舞う。舟を、こぐ。水の重さを感じる。なにかしら親しみをおぼえる重さだった。青年のくちびるに、笑みがのぼってくる。かげりのない笑みがのぼってくる。舟が湖面をすすんでいく。
 群れなした鳥たちが、遠くの高い空を黒い点描となってわたっていく。スローモーションフィルムの動作でよこぎっていく。それは感傷的な気持ちにさせる光景だった。なじみぶかいものとしても目に映った。カメラ好きだった父親が、遠いむかしに撮ったモノクロ写真を、彼はふいに思い出した。
 青年を乗せた舟は、湖のなかほどまで移動していた。空はいつもとちがい、はっきりとドーム状に感じられた。ずいぶんと大きく見えた。ここは星の内部なのだなと体感することができた。
 うごかしていた腕をとめる。オールをゆっくりと、はなす。水面のゆらぎのままに舟がたゆたう。波に身をまかせる。ちゃぷ、ちゃぷ、というひびきが耳もとにとどく。水の胸さきと船体がふれあう音だろうか。夢うつつのそのささやきを、空の下で聞く。
 青年はゆっくりと首をまわし、あらためてあたりをひとみにおさめていった。湖は、奥行きもふかくひろがっていた。遠方の水面は、葉むらの色を深めた色彩で静止している。絵画のように静まっている。じっさいのものより色調をおとした雲が湖に映っている。しずかにゆれる舟の周辺のみなもは──そこに映った雲は──ふるえている。青年の心も雲に同調してゆらめいた。雲のなかへ背なかからしずみおちていきたい甘い衝動もおぼえる。頭上には広大な空があった。それはシェルターの天井のようにも思えてくる。黄白色の太陽が浮かんでいる。宇宙が透けている。それらすべては、親愛なるものに向けられた微笑だった。
 灰色のリュックを船内におろす。水筒をとり出す。ふたをはずし、コーヒーを飲む。しかしそれはコーヒーではなかった。麦茶だった。香ばしい麦茶の味がする。たしかにコーヒーを注文したはずなのに。
 舟のなかに視線をもどすと、子どものころ好きだった絵本がちらばっていた。何冊もあった。何十冊とあった。あ、これもおぼえている。物語の終わりちかく、おびただしい数のローソクが夜空へと舞いあがっていくのだ。あおぎみる構図でそのシーンをえがいたパステル画が好きだった。夜空一面にひろがったローソクの炎が、夜の姿を金色につくりかえていた。
 青年はリュックを背もたれにし、舟の底にじかに坐ってみる。空がさらに高くなる。水面が真横まで上ってくる。水の上に坐っているみたいだ──。そよ風が、古い友人のように感じられてくる。のばした足に目をやる。ブルージーンズにつつまれた自らの足を見る。ふともも。ひざ。すね──。いつも、いっしょにいてくれたんだなぁ。意外なことを思った。靴さきにとまっていた小さな太陽がにじんでひかって跳ねだして、青年自身がおどろいた。
 苦笑いを口もとにうかべ、シャツの袖口で目をぬぐう。なつかしい絵本に手をのばす。心地よい本の重み。表紙の固さ。最初のページをひらく。古い紙の匂い。それは淡い哀しみをふくんだ時間そのものの匂いだった。左がわのページには青年の名前が書かれていた。自身が小学生だったときの筆跡だった。たぶん一年生か、二年生のころの──。なんだ、僕の持っていた本そのものだったのか。
 青年は物語が好きだった。絵も好きだった。絵本ほどすばらしいものはこの世にないのではないかと子ども心に思っていた。本をひらくだけで、見知らぬ世界へとつれ去ってもらえた。それが社会に出、絵本はもちろん、小説さえ手にとらなくなっていた。目を通すのは、仕事関係の味気ない書類ばかり。渦を巻く数字、数字、数字。膨れあがる責任、責任、責任。──忙しすぎたのだ。自分にとって大切でもないものを大切であるかのようにとらえていた。ストレスで肌もボロボロになってしまった。朝が来たかと思ったらもう次の朝が来ていた。自分でも何をしているのかわからないまま歩いていた。いや、走っていた、走らされていた。本当の自分とは似ても似つかない姿で。色みも失った景色のなかを。
 手にもった水筒をよく見ると、これも小学生のときに自身が使っていた水筒だった。薄くなって消えかけているが、そこにも青年の名前があった。それは母親が書いてくれたものだった。記憶に残っている母親の字だった。
 青年は絵本をめくっていく。子どものころの、本への澄みきった情熱が、ページから指さきへとかよってくる。つたわってくるのがわかる。紙面に親指をふれたまま、紙をはさんだ人さし指をうごかしてみる。つつつ、つ、つつ。その音までが、いとおしい。
 湖の真んなかで、水とひとつになった小舟のなかで、青年は読みふける。
 空はまだ明るい。一日で最も美しい時間帯がこれから来る。青年の好きだった、マジックアワーの時間が。マジックアワー。そう、その名前を教えてくれたのは父親だった。ハンチングのよく似合う、整った横顔がうかんできた。突き出した望遠レンズを調整する、その指先も──。
 青年は水筒に口をつけ、かたむける。よく母親がつくってくれた麦茶だ。少年の日の味がする。夏の日の味がする。苦味をおさえた、やさしい麦茶──。チェック柄のテーブルクロスにおちていた八月のひかり。カラン、という氷と氷がふれあう音。顔をあげると、ノースリーブのワンピースを着た母がやさしくほほ笑んでくれた。夏空のはるか遠くまで、可能性が、希望が、どこまでものびひろがっているような気がした──。
 湖面に浮かび、絵本をめくっていく。
 やがてマジックアワーの時間帯がおとずれるだろう。広い湖も赤むらさきに染まるだろう。白い小舟も群青色にかわるだろう。そしてそののちに、すべてを包みこむ濃い闇が降りてくるだろう。
 それまでに、まだ少しの間がある。



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