カフェ・マジックアワー (前編)
智(とも)
見あげていた視線をさげた。そしてその教会のまえを過ぎ、ふだんは行かない左のほうの道へ青年は歩いていく。鳥のさえずりが聞こえる。小川が流れている。山百合が香る。朝のひかりが葉々の上にちっている。
いつの間にできたのか、爪先あがりの道のさきに白いカフェが建っていた。壁面に屋号がきざまれている。ふしぎな店名だ。塔のような店だった。朝ぎりのせいなのか、何階まである建物なのかうまく見定めることができない。色の褪せたブルージーンズにベージュのオックスフォードシャツ。灰色のリュックを背負った青年は、みょうに心惹かれるものを感じた。店に入ってみることにする。
料金を支払うと、コーヒーは水筒に入って出てきた。小窓状の受けとり口からトレイが押し出されたのだ。女性の指と手の甲が一瞬だけ見えた。それほど若くはない、中年の女の人の手だった。
店内は風通しがよく、ほとんどが窓というつくりだ。コンビニエンスストアの売り場くらいの面積はあるだろう。観葉植物の鉢植えがそこかしこに置かれている。窓ぎわの壁から壁まで白いテーブルがわたされている。落ちつけそうなカウンター席だった。テーブルセットもバランスよく配置されている。オーク材の天板。細い足の椅子。床を染める幾何学的な影。
早朝の時間だったが、客は四人いた。みなひとり客で、サラリーマン風の若い男性がノートパソコンに視線をそそいでいる。本をひらいている知的な雰囲気の女性もいる。朝の陽光がグラスを通過し、ワッフルとブルーベリーをのせた皿のなかにおちている。老齢の紳士が背筋をのばし、窓のそとを眺めている。カップから湯気がたつ。小さな音でかかっているのはイノセントなピアノ曲だ。スピーカーがどこにあるのか青年はあちこちを見てみた。わからなかった。
青年は水筒ののったトレイをもち、吹き抜けになった空間をのぼっていく。二階へつづく白い階段をのぼる。梁に付けられた大きなファンがゆるやかにまわっている。
二階も一階とよく似た構造だった。大部分を占める窓に、端から端までわたされたカウンター席。ほどよく間隔をあけたテーブルセット。細い足の椅子。観葉植物。床を染めるそれらの影。アレカヤシのシルエットが壁でかすかにふるえている。客は三人いた。やはり年齢はまちまちだ。窓ぎわの無人の席──さしこんだひかりのなかにノートがあった。その上に置かれた万年筆。なんということもなくその情景を目にとめながら、青年は白い段板を踏む。ノートとペンが徐じょに小さくなっていく。
三階にも初老の男性客がひとりいた。茶色のハンチングをかぶり、丸メガネをかけ、白いもののまじった顎ひげを生やしている。マグカップの影が楕円をつくってテーブルにおちている。そのわきには年代物の黒いカメラがあった。不恰好なまでに突き出した望遠レンズ。記憶の底へセピア色の長い腕がすうっとのびてくる。その感覚がなんなのかはわからない。
ここにもノートとペンがある。ノートの上には万年筆がのっている。これも二階と同じだ。初老の男はおもむろに手をうごかし、ノートにふれ、横へスッとすべらせた。階上へ向かおうとする青年の方向へ。ノートと万年筆が彼への贈り物ででもあるかのように。どこか情のこもった腕のうごかしかただった。
四階には、もう階段がなかった。人の姿もない。ここが最上階なのだろうか。
ガラス戸の向こうにあるテラス──上へとのびる白い階段が目に入った。青年は歩をうつし、重いガラスの引き戸をあけてそとへ出てみた。草木の匂いをふくんだ風が前髪を持ちあげる。ここにもテーブルセットが三組あった。階段の下まで行ってみる。手すりをにぎり、からだも斜めにし、見あげてみる。白い階段──背景をなすのは吸いこまれそうな空の青さだ。青が円錐形にくぼんでいる。青年はまぶしさに目を細めた。青みが濃くなった。その感覚はひどくなつかしいものだった。まだ、のぼってみよう。上へ行けばいくほど、あとから客が来る確率は下がるはずだ。エレベーターらしきものも見当たらないのだから。だれもいない場所で、だれも来ない場所で、安らぎたかった。深く、いまは安らぎたかった──。行けるだけ上の階まで行ってみよう。そう心にきめ、すみにあった返却台にトレイを返した。かつん、と乾いた音が鳴る。背負っていたリュックに水筒もしまった。しまいぎわ、わずかに首をかしげて、水筒の表面を数瞬、青年は見た。
白い階段は、いつしか旋回する形状をとっていた。ずいぶんな高さまでのぼってきてしまったようだ。視界に入るのは建物の側面と、あとは空だけになっていた。見わたすかぎり水色しかない。この世界には、もともと空の青さしか存在しなかったかのように。
山中にあるカフェの螺旋階段を上へ上へとのぼっているだけのいまの自分には、「他者」も「人間関係」もなかった。「社会」もない。そこで演じなければならない役柄も、とうぜんなかった。青年と、空だけがあった。その我が身も、のぼればのぼるほど透きとおり、中空に溶けいってしまえるような気もしてくる。そうなれば、どこまでが自分で、どこからが空なのかわからなくなるのだろうか。それは何かとても、自然なことであるようにも思えた。
青年は、白い踏み板を一段一段のぼった。足の感覚が希薄だった。疲れてきたのではない。からだを持っているという感覚じたいが薄くなってきているのだ。無人の店内がガラス窓の向こうにいくどとなく覗けた。だれもいないフロア、床をわかつ光と影、だれもいないフロア、床をわかつ光と影、だれもいないフロア、床をわかつ光と影──。際限もなく繰り返される。
白い螺旋階段は、声のないなぐさめとなってどこまでも上方へとつづいていた。建物に背を向けると、迎え入れるような水色が視界のすみずみまでをみたしている。空を飛んでいるようにも、ゆっくりきりもみしながら青のなかへおちていっているようにも感じられてくる。ここが何階にあたるのか、もうわからない。
やがて青年は最上階に着いたようだった。階段がとぎれていた。上へと向かう手段はもうどこにもない。がらんどうの、船の甲板を連想させる、赤みがかったデッキに立っていた。建物の白い壁面が右手につづいている。窓のひとつもない。だが、のっぺりとしたその壁に、みどり色に塗られた扉が嵌めこまれている。このドアから店内へ入れるのだろうか。たぶんそうなのだろう。そうとしか解釈のしようがない。木製の重厚な扉だった。なかほどから下には、地図のようにも見える細工がほどこされている。近くまで寄ると、それは精巧なものであることがわかった。青年は、ひやりとする真鍮の取っ手に指をかけた。右にまわし、ゆっくりと引いてみる。扉はわずかにきしんだが、簡単にひらいた。
そこはカフェの店内ではなかった。
豊かな樹木に周囲をとりかこまれる草原だった。人影はない。注意ぶかく見わたしても、だれひとりとしていない。なんの物音もしない。黄色いひざしが草地一面に密やかにふっている。カフェに入ってからずいぶんと時間がたったようで、夕暮れがそれほど遠くないことを知らせる空だった。
カフェ・マジックアワー(後編・完結)につづく