※まずは深呼吸
リラックスして読み進めてください。
雨が降り出す前の匂いがする。
湿った風が首筋をかすめ、遠くで踏切が音を立てる。
雑踏の中で、誰かが早足に横切っていく。
腕時計に目をやる姿は慌ただしいが、その焦りすら見慣れた景色に溶けている。
信号が変わる。
渡るべきか、もう少しここに留まるべきか。
足元のアスファルトに散らばったガム跡をぼんやり見つめる。
車のクラクション。
無関心な顔。
スマホを弄る手。
目が合わないように、でも人の群れに置いていかれないように歩く人たち。
誰もが何かを探しているようで、でも、その「何か」が何なのかは分からないままに見えた。
角を曲がる。
狭い路地に入ると、ビルとビルの隙間からかすかに夕日が落ちるのが見えた。
オレンジ色に染まった空。
一瞬だけ、自分が見つけた秘密みたいに思える。
けれど、それもすぐに消える。
シャッターの閉まった店、くすんだ看板。
誰かが置き忘れた自転車が、錆びたチェーンをぶら下げている。
「…あーあ。」
誰でもない独り言が、喉から漏れる。
声に出してしまうと、少しだけ安心する。
少しだけ。
通り過ぎたはずの踏切が、また鳴っている。
さっきと同じ音のはずなのに、今度は妙に胸に響いた。
足を止める。
行き交う電車の窓越しに、見知らぬ誰かが座っているのが見えた。
疲れた顔。
笑ってる顔。
目を閉じている顔。
ひとつひとつが、他人のようで、どこか自分と重なる。
電車が通り過ぎた後、踏切は開いた。
だけど、そのまま立っていた。
誰も文句を言わない。
誰も気づかない。
ふいに、ポケットの奥に握りしめた小さな紙くずに触れる。
確か、朝に受け取ったチラシだった。
「新生活応援セール」
そんなありきたりな言葉が並ぶ安っぽい印刷物。
でも、無意識に捨てられずにいた。
些細なものにすがるなんて、情けない。
そう思う。
でも、紙の端を指でなぞっていると、
「そういうものでもいいんじゃないか」
そんな声が、どこからともなく聞こえた気がした。
背後で、また誰かが通り過ぎる。
「お疲れ様です!」
誰かが誰かに声をかけている。
「ありがとう」
誰かが応えている。
そのやり取りが、妙に鮮やかだった。
まるで、暗い空に突き刺さるように。
息を吸う。
冷えた空気が肺に入る。
電車が再びやってくる音がする。
今度は少しだけ歩き出す気になった。
重い靴底が、アスファルトにしっかりと音を立てる。
踏みしめるたび、何かが積み重なっていくような気がする。
何でもない音なのに、不思議とそう感じた。
そうだ、帰ろう。
それで、明日も歩いてみよう。
それくらいでいい。
きっとそれくらいで、いいんだ。
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『無名の交差点』を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
書き終えた今、僕は窓の外を眺めています。
街は今日も変わらず、人が行き交い、車が過ぎていきます。
誰も僕のことを気に留めることはなく、僕もまた、誰かをじっと見つめるわけではありません。
でも、その無数のすれ違いの中に、確かに「何か」があるのだと思います。
歩くこと、止まること。
踏切が開く音。
夕日に染まる狭い路地。
何気なく耳にした「ありがとう」。
それらはきっと、どれも些細で、明日になれば忘れてしまうかもしれない景色です。
だけど、僕たちはそんな景色に何度も支えられてきたのではないでしょうか。
疲れ果てて立ち止まった日。
歩きながら涙が出た日。
それでももう一度踏み出そうとした日。
すべてが自分を形作ってきた大切な時間だったと、今になって思います。
この物語の中に流れていた音や光、においや肌に触れる風が、読んでくださったあなたの心にも、少しでも寄り添うものであったなら嬉しいです。
「報われない」と思うことがあるかもしれません。
「もうやめたい」と感じる瞬間もあるでしょう。
でも、そのたびに、どうか思い出してください。
踏みしめる靴音が確かに響いていること。
あなたは今日も生きていること。
そして、あなたのその歩みを、知らない誰かがきっと見つけていることを。
歩くことに理由なんていらないのかもしれません。
ただ、あなたがそこにいて、歩いている。
それだけで、本当はもう十分なのだと思います。
この物語が、あなたがこれから進む道にそっと寄り添うものになれたなら、
それ以上に幸せなことはありません。
また、どこかの交差点で。
あなたの歩く音が、誰かの胸に届く日を願っています。
ありがとうございました。