「自分の本を出してみたい」
そう思ったことがある人は、決して少なくないはずです。
そして今、その願いは、驚くほど簡単に叶います。
Kindleを使えば、出版社に認められなくても、自分の名前で本を出すことができます。
企画書も審査も不要。極端に言えば、今日書いた原稿を明日出版することすら可能です。
この自由さは、素晴らしいことです。
しかし同時に、私は強い危機感を抱いています。
なぜなら、「出せてしまう」という事実が、出版の本質を見失わせているからです。
底なし沼のように広がる「読者不在の本」
我流でKindle出版を目指す人の多くが、知らず知らずのうちに陥っている“底なし沼”があります。
それは、
読者の目線が完全に抜け落ちたまま原稿を書いてしまうことです。
本人は一生懸命書いています。
むしろ、強い思いを込めて書いています。
しかし、その思いの強さと「読まれるかどうか」は、まったく別の問題です。
出版とは、「書きたいことを書く行為」ではありません。
「読まれたい人が、読みたいと思うものを書く行為」です。
ここを取り違えた瞬間、その本は読者に届かなくなります。
なぜ素人の文章は読みにくくなるのか
私はこれまで30年以上、300冊以上の書籍編集に関わってきました。
その経験から断言できます。
我流で書かれた原稿の9割以上は、読者にとって読みづらい構造になっています。
例えば、こんな文章です。
・二つの内容を一つの文で説明してしまう
・「これ」「それ」といった指示語が何を指しているか分からない
・書き手の頭の中ではつながっているが、読者の頭の中ではつながらない
書き手は、自分の考えていることをすべて知っています。
しかし読者は、何も知りません。
この前提を忘れた瞬間、文章は独り言になります。
音楽や映像は、技術がなければ成立しません。
しかし文章は、誰でも書けてしまう。
だからこそ、「書ける」と「読まれる」の間にある巨大な溝に気づかないまま出版してしまうのです。
読者は「あなたのこと」を知りたいわけではない
ここで、少し極端な例を出します。
私は納豆が大嫌いです。
どんなに「この納豆は美味しい」と勧められても、食べません。
なぜなら、私の目線に立っていないからです。
電子書籍も同じです。
書き手がどれだけ熱意を持っていても、
読者がそれを読みたいと思っていなければ、存在しないのと同じです。
例えば、多くの人は政治家が何を考えているかに関心を持ちます。
それは、その人の影響力や立場が、読者の関心と一致しているからです。
しかし、まだ知られていない個人が、自分の主張だけを一方的に語った本を出した場合、
それを読みたいと思う人は、どれだけいるでしょうか。
ここを直視しない限り、本は読まれません。
商業出版ですら「編集者の伴走」が必要な理由
誤解してほしくないのは、これはKindle出版に限った問題ではないということです。
商業出版の世界でも、著者は必ず編集者と一緒に本を作ります。
それは、著者が未熟だからではありません。
読者目線を保ち続けることが、それほど難しい作業だからです。
著者は、どうしても「伝えたい側」の視点になります。
編集者は、「読みたい側」の視点を持ち続けます。
この両者が何度も議論を重ねることで、初めて
「読者が望んでいるだろう一冊」に近づいていくのです。
プロですら、一人では到達できない領域です。
我流で、何ができるのか。
これは厳しい問いですが、避けて通ることはできません。
「出すこと」よりも「読まれること」に責任を持つ
出版文化は、確実に縮小しています。
だからこそ今、求められているのは、
数を増やすことではなく、価値のある一冊を生み出すことです。
読者の時間は有限です。
その貴重な時間を使ってもらう以上、本には責任があります。
Kindle出版は、誰にでも開かれた素晴らしい仕組みです。
しかしそれは同時に、「誰でも出版者になれる」という意味でもあります。
出版者とは、
単に本を出す人ではありません。
読者と誠実に向き合う人です。
自分が書きたいことではなく、
読者が読みたいことは何か。
自分の主張ではなく、
読者にとっての価値は何か。
この問いから逃げない限り、
電子書籍は単なる自己満足ではなく、誰かの人生を変える一冊になります。
そしてそれこそが、本来の出版の意味なのだと、私は信じています。