こんにちは、脱公務員キャリアコンサルタントのしーもです。
今回は、私が1990年(平成2年)に18歳で市役所に入所してから、2023年(令和5年)に51歳で退職するまでの33年間にわたる公務員としてのキャリアについて、振り返ってみたいと思います。
なぜその市に入ったのか?といえば、単純です。
家から近かったから。
(※この辺りの話は、以前の記事を参照していただければと思います)
そんな些細な理由でスタートした公務員人生ですが、退職するまで本当にさまざまな部署を経験し、多くの人と関わり、色々な出来事と向き合ってきました。
この記事では、配属ごとにどんな仕事をして、どんな学びがあったのかを、少しずつ振り返ってみようと思います。
詳しく書き綴ると、途方もないボリュームになってしまうので、かなり省略して概略だけをお伝えします。
■平成2~6年度:市道と住民に向き合う日々
地元の工業高校で土木を学んで技師として採用されたので、
最初に配属されたのは土木課というところでした。
主な仕事は、市道の維持管理や交通安全施設の整備。
舗装の補修や側溝の改修、カーブミラーやガードレールの設置など、「市民が安心して通れる道を維持管理する」ための現場仕事が中心でした。
市の職員が直接道路工事をするわけではありませんから、工事に必要な金額を積算して、工事業者さんに発注し、公共工事の管理監督をするのが仕事でした。
住民からの苦情に走り回り、時には理不尽な怒りを受け止めることも。
このときに学んだ「工事設計・積算の基本」と「住民対応力」は、その後どの部署に行っても役に立ちました。
配属3年目、初めての後輩が5歳年上で、いきなり難易度の高い後輩指導に直面しました。(めちゃくちゃ礼儀正しいいい人で本当に救われた)
ちなみに、市道のことを、私道と混同しないために、「いちどう」、「わたしくみちと(わたくしどう)」と読み分けるのは業界あるあるだと思います。
■平成7~11年度:下水道と舗装と現場感覚
次に配属されたのは下水道部の建設第2課というところ。
ここでは、公共下水道(汚水)工事に伴う道路復旧工事を担当しました。
下水道管敷設工事(別の課が担当)をした後のアスファルト舗装のやり直し、側溝の改修などの設計、積算、工事を担当しました。
土木課で担当した工事の設計積算、工事監督の経験をさらに深めることができた5年間でした。
次の部署への異動が決まった次の日、残される新人の後輩を守るために、全く仕事をしない上司にブチ切れたのは懐かしくも若気の至りってことで。。。
■平成12~14年度:緻密な設計と見えない空間との闘い
次の建設第1課では、公共下水道(汚水)の設計に関わることに。
ここで学んだのは公共下水道の設計基準に基づいた設計の奥深さと、地中で見えないものをいかにイメージできるかの空間把握能力の大切さでした。
管の太さや種類、勾配、地中の深さ(土被り)など、すべてがルールに基づいて成り立っている世界。
しかもそれが地中で見えないものなので、頭の中でどう描いて設計するかが難しかったです。
ちなみに、方向音痴の私は空間把握能力が低いため、頭の中で地中の状況をイメージしながら設計する作業が難しすぎて、どうやらこれは向いてなかったようです。
地中に無数に張り巡らされた水道管やガス管、電気通信管を避けながら、高いところから低いところにしか流れない下水道管を通すための設計を組み立てることは、私にはとても難易度の高い仕事でした。
■平成15~16年度:まちづくりと都市計画
都市計画課への異動で、これまでの現場とは全く違う計画分野の仕事へ。
都市計画決定手続き、都市計画証明、建築許可など、「そもそもまちがどうつくられてきて」「まちの未来をどう形づくるか」という視点を持った業務に携わるようになりました。
これまでとは明らかに視点の違う仕事で、まち全体を俯瞰的に見る力が養われました。
都市計画法、公有地拡大推進法、国土調査法、屋外広告物法など、扱う法令も多種多様で、法解釈力が鍛えられました。
この時、自分は法令を読んだり、解釈したりするのが苦にならない。どちらかというと、面白く感じるということに気付きました。
■平成17年度:京都府庁への出向・人生唯一の転勤
1年間の出向で、京都府庁 都市計画課へ。
ここでは、主に土地区画整理事業の許認可業務を担当しました。
長期未着手となってる都市計画道路の計画見直し(都市計画の廃止)についても携わりました。
府内各地の取り組みや事例に触れる中で、これまでとは違うスケールで「まち」を見る視野が広がりました。
33年間の公務員生活で、違う場所へ通勤したのはこの1年だけでした。
出向から市への帰任の内示があった二日後、スノーボードで肋骨8本骨折の大怪我をして、2週間の入院と1週間の自宅療養という大失態を犯したのは人生一番のやらかしです。
■平成18年度:二度目の下水道設計の仕事
府庁から戻って最初の部署は二度目となる公共下水道(汚水)設計の仕事でした。(組織改編が行われて、下水道施設課と名前が変わっていました。)
久しぶりの下水道の設計でしたが、苦手なものやはり苦手で、頭の中で地中の様子を描くのが本当に難しかったです。
せっかく京都府に出向して経験を積んだのに、あまり活かせない部署へ配属する市の方針に、ちょっとだけキレたのは懐かしい思い出です。
■平成19~20年度: 都市計画と自分の成長
平成19年、再び都市計画課へ戻ってきました。
都市計画証明や各種許可の実務に加え、都市計画マスタープランの改定、土地区画整理事業の認可といった業務にも関わりました。
この時期に強く感じたのは、自分の「書く力」「まとめる力」が試される場面が多かったということ。
計画書や審議会資料の作成はもちろん、議会や説明会などでのプレゼンテーション力も発揮する機会が増え、プライベートキャリアで積んできた説明力が役に立ちました。
■ 平成21~23年度:公園と向き合った3年間
次に配属されたのは、公園緑地課。
これまでとはまた違った分野で、都市公園の整備・管理という仕事に取り組みました。
工事の設計・積算に関する知識を活かしつつ、利用者からの声、時には厳しいクレームにも対応しました。
現代の公園は、なんでもかんでもルールで禁止していて、面白くない、なにもできない空間のようになっています。
なぜそんなことになっていってしまったのか。
ある意味、社会の縮図のような場所が公園だなと感じた部署でした。
(これに関しては、また機会があれば別の記事でご紹介します。)
■ 平成24~28年度:地域の足を守る仕事
交通政策課では、コミュニティバスの運行計画、地域公共交通ビジョンの策定、公共交通に関する条例制定、新規バス路線の開拓、高齢者運転免許証返納支援制度など、まちの足を支えるための実務に携わりました。
市役所に入って初めて、収益を上げるという仕事を経験しました。
コミュニティバスの収益をどうしたらもっと上げられるのか、様々なアイデアと工夫で取り組む面白さがありました。
新規バス路線の開拓では、バス事業者との交渉は難易度の高い仕事でしたが、ここで得たのは“粘り強い交渉力”。
立場の違う相手との話し合いの中で、譲れる点と譲れない点を見極めていく力が鍛えられたと思います。
また、この頃には課長補佐として部下の監督・育成にもあたり、監督職としての経験も積むことができました。
地域公共交通会議の運営、議会での説明、住民説明会など、対外的な説明力がより一層鍛えられた時期でした。
高齢者の運転ミスによる交通事故がニュースで取り上げられて、免許返納支援の実務を行っていたこともあり、当時75歳の母にも話をして免許返納に踏み切ってもらいました。
■ 平成29年~令和2年度:“まち”をつくる現場の最前線で
再び都市計画課に戻ってきたのは平成29年。
最初の二年間は課長補佐兼係長として、宅地開発行為や建築行為の届出対応に関する仕事に携わりました。
宅地開発や建築行為は時に近隣住民とのトラブルにも発展します。
その多くは、民事の紛争であることが多いですが、市役所に何とかしてくれと持ち込まれることも多かったです。
どうにもできないことで責められる日々が、正直かなりキツかったです。
後に、この講座を考える原点になりました。
後半の二年間は主幹として、景観ガイドラインの策定、景観デザイン審査会や都市計画審議会の運営、特定生産緑地地区の指定といった専門性の高い業務にも携わりながら、同時進行で多くのプロジェクトを動かしました。
自分がプレイヤーとしてというよりは、部下の仕事をマネージメントしながら一定の成果を積み上げていくという管理職としての力を養いました。
■令和3~4年度:駅周辺整備・市の最大の課題
最後の配属先はまちづくり政策室。
駅周辺整備や無電柱化事業、土地区画整理事業、さらには市街地再開発事業の検討など、未来に向けた“まちの骨格”を形にする仕事でした。
大規模事業は一筋縄ではいきません。
駅周辺整備は、鉄道の高架化も含めての壮大なお話なので、50年以上前から構想が実現できていない一大事業です。
関係者も多く、利害も複雑。
だからこそ、「どうすれば事業を前に進めることができるのか」を考える毎日でした。
仮に事業が動き出したとしても、完成する姿を現職で見ることは叶わない。
そう考えた時に、50歳の節目を迎えたこともあり、数年前から自分の中で燻っていた気持ちがどんどん大きくなっていきました。