💎人間誰でも、一生のうち何回かは”失敗や挫折”を味わいます。
その挫折に押し倒されて再び立ち直れない人もいるし、
いったん落ちた底辺からまた這い上がる人もいます。
再び這い上がり、立ち直れる人は、
「楽観を捨てずに自分自身を励ます能力」を身に着けている人だと思います。
これは、あくまで「公式」(心のモヤモヤ退治法)です。
各人各様のやりかたがあるはずです。
この公式を基礎にして、自分にあったやり方をあみだしてほしいのです。
💎スマホ脳(SNSチャット脳)その他いろんなことで
睡眠がうまく取れなくなり、何が何だかわからなくなり、
つまり気にしなくていいことを気にしてしまって頭から離れなくなる状態です。そして、自分に対して、脅迫観念が起こり、
胸が圧迫され、発作つまり激情へ!
これが今のストレスというものです。これが、スマホの負の遺産です。
こういう状態になったら
睡眠をとるときに病院の薬が必須ということです。
要は、ここまでの状態になるまでチャットをしまくって薬を処方してもらって
睡眠をとるという方法をとるのか、
あるいは、こうなるのはイヤなので、チャットの相手を無視するという対策を
講じて、「あ!始まった」と感じたら、自分が工夫した策を実行すればストレスは起きないということになるはずです。
しかし、このパターンが面倒くさく自分の性格に合っていなければ、
病院へいって薬を処方してもらうという事をパターン化することです。
つまり、病院を「昔で言うと、行きつけのスナック」にするという事です。
以上です。
(転ばない人より立ち直る人になりましょう!)
「立ち直るというのは、とても大切な能力だと思います。
というのも、人というのは、うまく生きているように見える人でも
必ず転んだり、落ち込んだりしているからです。
長い人生の間に、一回も転ばない人などいません。
挫折は、人間の宿命といってもいいのです。
必ず転ぶのであれば、立ち直る能力は、どうしても必要になります。
ところが、親は子供に「転ばないでほしい」と願います。
転ばない方法を一生懸命に考えて、転ばないための先回りの方策を考えて
子どもにそれをやらせます。
しかし、考えてみると、こんな馬鹿な話はありません。
「転ばない人生」など、どこにもないからです。
こういう親は、必死になってムダな努力をしていることになります。
私にだって、子どもに「転ばない歩き方」を教えてみろと言われても
できません。
ですから、立ち直り方を覚える方がずっといいはずです。
これは、実際に転んでみるしかないのです。
転んで、自分で立ち上がって、立ち直り方を覚えるという事です。
何よりも「私は、自分で立ち上がれる」という自信をつけることが大切です。
自分で立ち直れると思えば、転ぶのはもう怖くないはずです。
その時はその時で適当に立ち直ることができるのです。
こまめに転んでこまめに立ち直っていた方が「平穏」のように思うのです。
しょっちゅう転ぶ人は、「私は、立ち直りの名人だ」と思っておおいに
自信を持ってほしいと思います。
この自信が、人生の下支えになるのですから!
(人の心は、傷つきやすいもの、理解されたり、誤解されたり!)
心というものは、傷つきやすいもの、
攻撃したつもりはなくても、相手は攻撃されたように感じて傷つくことが少なくありません。
しかし、それをあまり気にしすぎると、あらゆることに消極的になります。
「こんなことを言うと、あの人はこう思うのではないか」
「これは言っていいことなのだろうか、誤解されるかもしれない」
こんなふうにあれこれ相手の気持ちをおもんばかる人は、優しい人だが、
周囲に気を使い過ぎて、本人のホンネや気持ちがわからなくなってしまいがちです。
コミュニケーションというのは、どっちみち誤解だらけのものなのです。
本当に悪意があって、「傷つけよう」という気持ちのなかった言葉であれば
たいていのことは、ちゃんと取り返すことができます。
「そんなつもりはなかった」と申し開きをして、
誤解されていると思うところを、もう一度説明し直せばいいのです。
自分が不注意な事を言って悪かったと思えばあっさりと謝ってもいいと思うのです。
反対に、誰かの言葉に傷ついた人は、
「私は、そんなことを言われるのは、イヤだ」といってよいと思うのです。
そうすれば相手も「あの人は、こういうことをイヤがるのだな、気をつけよう」とわかるものです。
もしくは「あなたを攻撃するつもりはありませんでした」という答えが返ってきて誤解がとけるかもしれません。
気にしないなら気にしないでさっと忘れる。
気になるなら口に出して言ってみる。
一番よくないのは、
「あの人がこう思っている」「私は傷つけられた」「もしかしてあの言葉がいけなかったのかも」などとあれこれ思いながら
お互いに確認することもなく、どんどん疑心暗鬼をふくらませていくことです。
わかっちゃいるけど.....!
「人を傷つける」こと 「自分が傷つく」ことに敏感過ぎる人は、
もっと気軽にあれこれ語り合って、
傷をつけては治すことに慣れてみてはどうでしょうか!
要は「話せばわかる」のです。
話さない人ほど、心の傷は治りにくくなっているのです。
(目標のない人には、手を差し伸べることはできません!)
「今日は、これだけの仕事をしよう」
「部屋の大掃除をしてしまおう」という、短期の目標があります。
「三年後には、こんな生活をしたい」
「十年後には、こんなことをやりとげたい」という長期の目標もあると思います。目標をもつことは、大切な事のはずです。
たとえば、旅行でも「パリにいこう」と決めた時点で
どの飛行機でどこを通っていくのかと計画をたてますよね。
「買い物をしよう」「遺跡を見よう」という目標があるから
地図を買ってきたり、ガイドブックを見たりして、予定が立てられます。
何の目標もなければ、具体的な行動は始まりません。
目標があれば、それを実現するための具体的な行動が始められます。
どちらに進むか決められます。
方向がずれたとしても、目標が定まっていれば、それに向かって修正もできます。もちろん途中でいろいろ見て、目標が変わってきたのならそれはそれでいいと思うのです。
目標というものがなければ動きようがないはずです。
これでは、行き詰った時の打開策も生まれてきません。
「パソコンを買いたい」人も、「何をしたいのか」が決まっていないと
機種の決めようもないはずです。
ただ漠然と「パソコンが欲しい」といっても、販売店の人も、どの機器を
すすめていいやらわからないはずです。
人生も同じなのです。
「こうしたいんですけど、うまくいきません。どうしたらいいのでしょう?」
という目標がはっきりしている人には、周囲から助けの手が伸びてきます。
その人の為に何をしたらいいのかがわかりやすいし、助けやすいのです。
その人の目標の為に、自分にできることがあればしようと考えるはずだからです。
何がしたいのか、どうしたいのかわからない人が「困った、困った」と言っても、神様も占い師も周囲の人も助けようがありません。
焦る必要はありません。
やみくもに行動するばかりが能ではありません。
何を目標にするか、じっくり考えてみるのも必要な時間のはずです。
自分の人生の目標を決めるために、他人の人生の目標を聞いてみるのもいいのではないでしょうか!
(あなたも主人公、他人も主人公!)
つらい時、苦しい時というのは、自分だけが悲劇の主人公のような気持になりがちです。
自分のこの苦しみは、誰もわかってくれない、
なんで私だけが....と。
こういう時は、人は孤独感を味わうのです。
「うつ状態」の人はみな、世界中でこんなに苦しんでいるのは、自分一人、
一生これで苦しむのだと思っている状態なのです。
けれども、病院の待合室などで、他の人の苦しみや悩みをふと耳にして、
「ああ、自分だけではなかったのだ。みんなそれぞれに、いろいろ辛いことが
あるのだ」とわかれば、少し楽になるのが人間です。
けれども、いったんそうとわかった人は、今度は、落ち込んでいる人を見ると
お説教したくなるのです。
「あなただけが悲劇の主人公ではないのよ。
世の中には、もっとつらい人もいるのよ。あなたは恵まれている方よ。
そのことに感謝しなくては」
落ち込んでいる時に、こういわれて「なるほどそうか!」と、すぐに
元気になる人は、まずいません。
「感謝」の気持ちというのは、その時がくれば自然にあふれ出てくるものなのです。
「感謝しなくては」と押し付けられてする感謝は、本物の感謝ではありません。
だいたい、不幸そうな人を見て、心が痛むというならわかりますが、
不幸そうな人を見て、感謝しろと勧めるのは、おかしな話ではありませんか?
確かに自分だけが悲劇の主人公ではありません。
しかし、自分が悲劇の主人公になるのは、いいことだと思うのですが!
あなたの人生の主人公は、あなたです。
喜びごとも悲しみもすべてのドラマの主人公はあなたです。
自分の幸せを思い切り喜び、自分の不幸を思い切り悲しむ、それがよいのです。
他人には、また、その人の幸せがあり、その人の苦しみがあります。
その人も、その人の人生の主人公です。
あなたが自分を自分の人生の主人公として大切にできれば
他の人もやはり主人公なのだと大切にできるでしょう。
人生には、悲劇の時もあれば、楽しい時もあります。
今があなたにとって悲劇のときなら、思い切り悲劇の主人公になってよいのです。
(アドバイスの押し売りは、やめてほしいものです!)
ある男性が、引っ越しの準備をしていた時の話です。
彼は近くのコンビニエンスストアで、段ボール箱をいくつかもらってきました。それを手で抱えて運んだが、大きいのでズルズルとすべり落ちて
何度か抱え直して歩きました。
彼のそんな姿を見て、こう教えてくれました。
「あらあらこれじゃ大変でしょう。段ボールをまとめてヒモでしばって持てばいいのに」
なるほど、そうすればいいのだと思った彼は、お礼を言いました。
「ああ、そうですね、ありがとうございます。今度からそうします」
ここで話が終われば、この女性は感謝されて、男性も親切にされて気分よく
次回からは、段ボールを運ぶのも手際よくできて、すべては、めでたしだった。ところが、この女性は、
「ヒモでしばらなくちゃダメよ。これじゃ落ちてきちゃうでしょう」と重ねて
言いました。男性は少し困って、
「今度からそうします。今はもう仕方がないので」
すると彼女は、目の前の電気屋さんを指さし、
「ほら、ここの電気屋さんでヒモをもらって、縛りなさい。
ここで頼めばいいわよ」としつこく勧める。
しかし、男性の家は、あと一分で帰り着く距離なのです。
電気屋さんでそんなことをしているより、帰ってしまったほうがずっと早い。
「ありがとうございます。でも、もううちはすぐそこなので、今度からヒモを
持っていきますので」
やや迷惑に感じ始めた彼は、頭を下げてそそくさと歩き始めたのです。
すると、その後ろ姿の向かって、こんな声が聞こえてきたそうなのです。
「強情ね!人が教えてくれたいいことは、素直にきくものよ」
人が困っているのを見ると、いい方法を教えたくなるものです。
教えるのも悪いことではありません。
しかし、あなたは、こんな押し売りをやっていないだろうか。
これでは相手だって感謝する気になれないでしょう。
相手には、相手の事情があり、あなたの思う「いいこと」が必ずしも
ベストとは限りません。
あとはどうするかは、相手が決めることです。
(オリンピック選手と比べて落ち込んでいませんか!)
他人と比較しては、「私にはあれができない、これが劣っている、
あそこで負けている」と落ち込む人は少なくない。
こういう人を見ると、私は「比較する相手が間違っている」と思う。
例えば、オリンピックの選手と比べて、「私は、走るのが遅い」といって
落ち込む人がいるだろうか?
「あんなに上手に平均台を歩けない」といって悩むだろうか。
中にはそういう人もいるだろうが、オリンピックの選手とわが身を比べて
劣等感に陥っていたらおちおちテレビも見られない。
ノーベル賞作家と比べて文章がへたくそだといって悩んだり、
北島選手のように早く泳ぐことができないといって落ち込む人はいません。
むしろ私たちは、そうした一流の人たちの仕事を見て、楽しみ、感動をする。
ところが身近な人だと、こうはいかない。
兄弟であれば嫉妬する。同僚であればねたむ。
自分が、その人に及ばないことに焦ったりする。
しかし、よくよく考えてみれば、自分が能力的にかなわない人と
しょっちゅう比べるのは、オリンピック選手と比べているのと同じことでは
ないでしょうか。
あなたの周りにも、自分より才能があふれている人、有能な人がいるかもしれないが、その時は、「あれは、オリンピック選手と同じだ」と思えばいいのです。自分がかなう相手だと思うから、その人の「すばらしさ」が楽しめないのです。また、心の中に架空のオリンピック選手を作り上げてしまう人もいます。誰もそこまで完璧な要求などしていないのに、本人だけがそう期待されていると思い込んでしまうのです。
少々の失敗で、周囲は、まったく気にしていませんが、本人は大変な失敗を
やらかしたように思ってしまうのです。
あなたも、自分に完璧な人間像を期待していませんか?
「あれもできなければならない、これくらいやれて当然だ、
こんな失敗してみんながなんと思うだろうか、ああ私は、ダメな人間だ」
そんなふうに暗い気分になってきたときは、
「私は、オリンピック選手ではない」とつぶやいてみましょう。
試しに、あなたが「こうできない、ああできない」と思っていることを
すべて数えあげてみましょう。
それが全部できる人は、どんなにすごいスーパー人間だろうか?
どうせ比べるなら、もうちょっといい加減な人間と比べればいいのです。
(どんなに能力が上がっても転ぶ数は同じです!)
比べるなら、自分と同じくらいの能力の人が良い。
そうすれば、ときには、「負ける」が、ときには「勝った」と喜ぶことが
できます。これが「よきライバル」というものです。
能力が向上するためには、ときに勝ったり、ときに負けたりすることが必要です。
百パーセント勝つ試合ばかりやっていても、百パーセント負ける試合ばかりやっていても、上達はしません。
落ち込みやすい人は、絶対に勝てる試合か、絶対に負ける試合しかしない傾向があります。
しかし、絶対に勝てる試合ばかりしていても、自分が弱い相手を選んでいることがわかっているので、本当の自信はつきません。
絶対に負ける試合をするのは、「最初からダメだとわかっていたんだ」という
言い訳がつくので、やはり自信はつきません。
実力相応の舞台を選ぶことが大切なのです。
では、自分の実力、能力の程度は、どうやったら見極めがつくのでしょう!
それは、たくさん実践をしてみるしかないのです。
あれこれ実践経験をつんでいるうちに「私には、これは無理だ」
「これではやさしすぎる。もうちょっと難しいものに挑戦してみたい」と
わかってくるのです。すると、
適度に自分が満足できることをやり、よきライバルを持つことができるのです。
すぐに落ち込む人は、だいたい、百パーセント勝つことを求めがちです。
しかし、百パーセント勝つ人はいないはずです。
オリンピック選手と普通の人が競争をしたら、オリンピック選手が百パーセント勝つでしょう。
しかし、彼らはそういう「簡単な」試合はしません。
やはり、勝ったり負けたりする相手を選んで「きつい」試合をしています。
その方が面白いからです。
うまくいったり、いかなかったりするからこそ、意欲がわいてくるのです。
自分に能力がないと思って落ち込んでいる人は、考え直してほしいのです。
あなたがどれだけ有能で優秀でも、そのレベルで試合をするのだから
勝ち負けの数は、今と同じです。
「もっと美人だったら」「もっと頭がよかったら」
もっと人生がうまくいったのにと思うのは、大間違いです。
たとえ今より能力が優れていても、人生で転ぶ数は変わらないはずです。
今のレベルで何度も転んで勝負していくのもなかなかいい人生になるはずです。
(前向きばかりが能じゃありません、後ろ向きの努力もあります)
どうもやる気がしない、これからどっちの方向に進んでいいのかわからない、
あれがうまくいかない、こっちは行き詰まりだ。人生にはそんなときがあります。すっかりぐったりして、友人に愚痴をいうと、
「そんな事をいっても仕方ないよ。前向きに努力をしよう」などと励まされ
よけいに脱力感をもつことになります。
あなたにもこんなことがあるでしょう。
前向きな努力ができるうちはいいのです。
前向きな努力が不可能になったからこそ、疲れて落ち込んでいるのです。
口先だけ「そうか、前向きに努力してみるよ」といってみても
ちっとも解決にはなりません。たいていはそんな状況ではないでしょうか!
前向きに努力などというものは、政治家にでも任せておけばいいのです。
できないことは、どうせできません。
だいたい前向きばかりが能じゃありません。
車だって前にしか進めない車では、欠陥商品です。
人間だって、前に進むばかりが努力ではありません。
後ろ向きの努力というのもあっていいと思われませんか!
うつや無気力状態(五月病)におちいったり、集中しない、なかなかやる気が
起こらない。
そんな時あなたはきっと後ろ向きの努力をしているのです。
何のための後ろ向きの努力でしょう!
もしかしたら、人生の方向転換かもしれません。
車庫入れをして、オーバーヒートしそうなエンジンを休めるためかもしれません。いずれにしても、後ろ向きに進む必要があるからそうなっているのです。
「前向き」ばかりがいいことだと信じて、バックするべきところで前進してしまったら大事故になります。
方向転換できずに、いきたくもないところへ着いてしまうのです。
もしもあなたが今、無気力・うつ状態に陥っているなら
ちゃんと後ろ向きの努力ををする能力が備わっているのだから心配しなくて
いいのです。
無理に前向きに直すのではなく、自然と前向きになってくるまで待つというか
今現在の波に乗っておきましょう。自然と前向きになるのです。焦らずに!
それまでは、のんびり後ろ向きに進んでいればいいのです。
きっと、あとから、なぜ自分がバックしていたか、その理由がわかる時が
必ずやってきます。こういう立ち直り方もあるのです。
(相手を変えようとするのは、ムダな努力としか言えないと思います)
「誰もが自分と同じでなくてもよい」などというと
「当たり前だ」と思う人がほとんどでしょう。
しかし、実際には、私たちは他人が「自分と同じだ」という事を
前提に考えていたり、自分と違うと怒ったり、
相手を自分と同じにしてみようとしたり、「ムダな努力」をしているのです。
ある有能な男性は、周囲の人が自分ほど有能ではなく
自分と同じように素晴らしい仕事ができないことにイライラして腹がたって仕方がありません。
彼は、「私の仕事が増える、私ばかり損をする」という。
「その人の仕事は、その人の仕事で、ほっておけばいいではありませんか」といえば「あまりにモタモタしていて、見ていられない。私がやってしまった方が早い、と手を出さずにはいられない。ほっておいたら私の部署の成績が下がる」という。
自分の部署の成績が下がるのは、自分の評価までさげると感じているのでしょう。彼は、無能な同僚の仕事を代わってやって「得」をしたい。
労力としては、損かもしれないが、それをやらなければ彼の気持ちは
納得できないのです。
気持ちとしては、得をとって、労力としては損をしているのだが
それが悔しくてしかたがないらしく、労力をかけずに得をしたいのです。
もちろん誰だってその方がいいのだが!
しかし、自分と違う人たちと付き合うのは、もともと労力のいるものです。
彼の周囲にいる人のほうも、きっとこの人と付き合うのにたいへんな労力を必要としているだろう。
「やれやれ、自分と同じような能力の人だったら良かったのに!
時間をかけても自分でやるから、いちいち手を出してくれなくてもいいのに」と思っているのです。
同僚が彼と同じような仕事ができないのと同じに
彼も、同僚たちと同じようにのんびりした仕事ができない。
どちらも、相手と同じようにはできないという点で同じなのです。
それを「自分の方が相手より偉くて、向こうは困ったもので、
こっちばかり損をしている」と思うから疲れてしまいます。
そんなに相手を自分と同じにしたいのなら
まず自分が相手と同じになろうとしてみればいいのです。
いくら頑張っても、できないことがわかるでしょう。
結局、誰もが自分のやり方でやるしかないのではないでしょうか。
(心の波長に耳を傾けましょう!)
当たり前のことですが、腹が立つというのは、非常に気分が悪くなることです。できればいつもたのしく朗らかでいたいものです。
楽しい時、うれしい時、幸せと感じるときには、その状態が続いてくれることを望むのが人間ですが、怒ったり、悲しんだり、不幸な時に
「いつまでもこの状態のままでいたい」と望む人はいないと思います。
そうはいっても、たまにはイヤな気分になることは避けられません。
いいこともあれば悪いこともあります。
夜がくれば朝も来る。昼間が終われば夜になります。
それと同じ事です。
あなた以外の人も皆、昼と夜を繰り返し、いいこと悪いこと、気分のいい時と悪い時を繰り返しています。
夜になると一日の疲れがたまって眠くなります。
疲れがとれれば、朝が来て活発に動けるようになります。
この、自然の流れに逆らわないことです。
イヤな気分や落ち込んだ時には、無理に明るくふるまうのではなく
そのブルーな気分をとことん味わってみるという感覚になることが大切な事と思います。
失恋して暗い気分の時に、わざわざ部屋を暗くして、悲しい失恋の歌を聞いて
思い切り落ちこんだ経験はないでしょうか!
そうやって、暗い気分の時には、どっぷりと暗くなると案外すっきり立ち直ると思うのです。
惨めな時には、積極的にみじめな気分に波長を合わせたほうが
心が癒されます。
「こんなみじめな気分はイヤだ。私はこんなみじめな人間ではない」と
逆らっていると、なかなか抜け出せません。
自分の心は、本当は悲しい波長になっているのに、それを無視するのは
よけいに苦しい。
寂しい印象の単調のカラオケの伴奏がなっているのに
明るい長調のポップスを無理やり歌っているようなもので
歌っている人も気持ちよくないし、すっきりしません。
不協和音でよけいに気分が悪くなるのです。
気分というのは、いろいろ変わります。
演歌の伴奏がなっている時には、思い切り演歌を歌い、ポップスが流れている時にはポップスを歌う。
その方が気分の切り替えもよくて、結局は、この方が気持ちいいように思うのです。
今、あなたの心は、どんな波長でしょうか?
心の奏でる伴奏は、どんな曲調でしょうか?
波長があったら、いっしょに歌えばいいのです。
無理に違う歌を歌っても楽しくないはずです。
(迷い道は、ムダではありません!ムダな事もムダではないのです!)
車が渋滞すると、我慢できずに横道に入らずにはいられない人がいます。
ある男性は、このタイプの人で、並んでのろのろ走っていることに耐えられず
必ず横道に入ってしまうのです。
ところが、これで成功した試しがなく、知らない道に迷ってうろうろして、
狭い道にゴミ収集車がいたりして結局よけいな時間がかかることが
多いというのです。
ところが、隣に座っている奥様は、でんとしたもので
「これで新しい道が覚えられたわね」と思うか
「こんなところにこんな店があるなんて知らなかったわね。今度着てみましょう」と、楽しそうにしているそうなのです。
「迷って時間を無駄にした」と思うのか
「迷ったおかげで新しい道を覚えられた」と思うのか!
ここが人生の分かれみちになるのです。
「迷って時間を無駄にした」と思う人は、もともと性格的に生きにくい人なのです。とにかく時間を無駄にしたくない。目的地に一刻も早く着くことだけが
必要な時間で、それ以外は、「ムダな時間」ということになります。
だから、渋滞すると我慢できずに、横道へはいりたくなるのです。
多分普段から「効率」ばかり考えて、ムダなものには、目をむけない
生活をしているのでしょう。
そのために、いろいろなものを切り捨ててしまうのです。
しかし、本人には、「ムダ」と思えるものが、案外必要なものであることは多いのです。偶然、ふと目に入ってきたものが、大切なものだったりするものです。ムダを切り捨てている人は、本当は、とても損をしているのです。
けれどもうまくできたもので、いつも目的地一直線の生活をしている人は、
自然と回り道をさせられたりするものです。
本人が切り捨てようとしたものが、ちゃんと目に入るようになるのです。
この奥さんのような性格の人は、もともと生きやす人だと思うのです。
いろんなことが楽しめるので、人生に無駄がなくなるのです。
目的地に着くことも、寄り道することも、迷う事も、
すべて大切なことになるので、ちっとも「ムダ」ではなくなるのです。
この夫のように「必要」と「ムダ」がはっきり分かれている人は、
試しに「人生にはムダも必要」と思ってみましょう。
つまりは、自分のやりたいこともこういう感覚のものではないでしょうか?
「ムダなこと」の必要ぶりがわかるには、時間がかかるかもしれません。
いいかえれば、ムダをなくそうと思っても絶対に無理な事なのです。
ムダを減らす努力よりも、言い換えれば、
ムダをムダと思わない思考転換をする方が、無駄がなくて
「効率的」と思っている次第です。
(心の中で葬式をして、新しい生活を始めることです)
悲しい時には、どっぷり悲しい気分に浸り
落ち込む時には、とことん落ち込む。
こうしているうちに、気持ちがだんだんおさまって、日常に戻っていく。
葬式を行うのも、ひとつにはそういう意味があるのです。
身近な人が亡くなって悲しい気持ちを、その死をいたむ人たちが集まって
共有します。その人を失ったことを、じょじょに心に収めていく。
そのためのひとつの儀式なのです。
親しい人が亡くなったら、どんな形にしろ、葬式というものを行わないと
気分の切り替えがつかないはずです。
葬式をきちんと行うからこそ、それが終わったら、また日常の生活を
始められるのです。
「失恋したときに、悲しい歌を聞いて、どっぷり悲しみに浸る」というのも
ある意味で葬式なのです。
恋を失った葬式を一人でおこなっているわけです。
今までバリバリ仕事をしてきたサラリーマンが、営業成績が落ちて
後輩社員に負けてしまった。
こんな時に落ち込むのは、「有能で、いつもトップの自分」の葬式です。
生きていくことは、失う事の連続です。もちろん得るものもあります。
失っては悲しみ、新しいものを得ては喜ぶ。この繰り返しです。
「変化をする」ことは、今までの状態を失う事なので、すべて葬式です。
例えば、結婚すれば「独身」を失った葬式をして、新しい生活を始める。
私たちは、心の中でしょっちゅう、いろいろなものを葬式をしては
また立ち直って新たな生活を続けているのです。
なかなか立ち直れない時は、きちんと葬式ができていないのかもしれません。
葬式をしないので、気分にケジメがつかないのでしょう。
「なんとなく憂鬱なのだが、原因がわからない。」
そういう時は、たぶん何かの葬式がきちんとできていないのです。
今、落ち込んでいる人は、自分が何の葬式をしているのか考えてみましょう!
「そう言えば、いままでずっとこう生きてきたけど、それでは通用しなくなったので、その葬式をしているのだ」と思いつくかもしれません。
人の心は、何でもかんでもはっきりと説明のつくものではありません。
あなたの知らない心の奥深くで、ひそかになにかの葬式が行われているのかもしれません。
ワケもなく憂鬱で落ち込んだ時には、
「これはきっと何かの葬式なのだろう」と思ってほしいのです。