「ふうが悪い」は方言で、
みっともない、とか、はずかしい、きまりが悪い、という意味です。
私の母がよく言っていた言葉です。
育った環境で養育者が繰り返し使っていた言葉や、
その言葉についているエネルギーを
子どもは無自覚に受け入れてしまいがちです。
私の場合もそうで、
母は、誰かの言動に対して、批判の意味で、
「ふうが悪い」と言っていたのだと思いますが、
私はそれを、「私の存在自体」「私そのもの」を
母が「ふうが悪い」と言っているのだと受け取っていたようです。
いつも自分の存在に確信が持てなくて、
全てにおいて何をどうしたらいいのか分からなくて、
強い不安と恐怖心のようなものがあり、
世界に取り残されている感覚がありました。
誰かに助けて欲しいけれど、
誰が助けてくれるのか分からないし、
どう助けて欲しいのかも分からない。
強い無力感で、気を抜くと意味の分からない涙が出ていました。
言葉にならない悲しさ
言葉にできない不安
どこからわいてくるのか分からない恐怖心
そんなものに入り込んでいました。
生き方が分からない
自分が分からない
自分が空っぽで
無意味で
自分の命がなぜあるのかも分からない
あらゆるものがぐちゃぐちゃでした。
だけど、なぜか生きている。
命が終わることなく生きている。
何なんだろう?これは?
いくら考えても答えは出なくて、
むなしさを抱えながら生きていました。
時が経ち、
「生かされている」と瞬間的につかんだことがありました。
「生きている」ではなく「生かされている」のだと。
その頃には、
魂の伴走者を得て、
私に強い影響力のあった母について、
自分自身の「エゴ」と「本当」を
見分けることで、
同時に、「母のエゴ」も「母の本当」も
見分けがつくようになり、
「やり方」を少しずつ体得していきました。
母のエゴに自分のエゴが巻き込まれていただけで、
私そのものには何も関係がなかった、ということ。
自分の「エゴ」が分かってくると、
自分以外の人の「エゴ」も分かるようになり、
それが自己理解を通して他者理解へと自動的に進んでいきました。
私にとって、
「困った母」から「母を愛している」へと
変わっていき、
「私を苦しめている人」と思っていた人は、
「私に愛を教えてくれる人だった」に変化しました。
生き方も分かってきたし、
自分の存在に確信が持てるようになりました。
「これが私です」という感覚を感じることもできるようになりました。
ここまで私を進めるためには、
あの強い苦しみが私には必要だったのだろう、と
今は思えます。
苦しみを活用していく。
「自分」になるために、見つめてみる。
自分の闇を知るものは、
「自分」への挑戦を続けている。
誰のためでもなく自分のために。
そしてそれが巡り巡って誰かのためにもなっていることを
目の前の現実が教えてくれます。
自分の本当の望みを知り、
その望みを大切にした生き方は、
世代によって引き継がれてきた
「エゴ」の習慣を終わらせ、
新たなルートが立ち上がっていく。
それは自分の「光」であり、
家族の「光」となる。
大丈夫。