あるご門徒さんのお宅で、ご法事をつとめさせていただきました。親族が集まり、厳かな雰囲気の中で法要をつとめ、そのままお食事まで同席させていただきました。無事ご法事が終わったこともあってか、アルコールが入った勢いもあってか、皆次第に楽しげな雰囲気となり、会話も盛り上がってきました。
すると、突然ご門徒さんが私に「うちの息子は結婚適齢期なのに、彼女もつくらないで、車にばっかり入れ込んでるんですよ。どうにかなりませんかね。誰かいい人でもいませんか?」と尋ねてこられたのです。差しあたって思いつく方もおられなかったので「う~ん、おられませんね」とお答えすると、ご門徒さんは肩をガクッと落とされ苦笑されていました。そんな光景に私も笑いながら「では、いい人が見つかったらご連絡いたします」と約束をしながら、話題を息子さんの車に関するものへと向けていきました。
30歳という息子さんは、とにかく車好きで、お金もたくさん車にかけられているようでした。車の知識が乏しい私は興味を抱き、隣に座っていた息子さんに話しかけてみました。
「車のどのようなところが楽しいのですか?」
すると息子さんは「最近は車の燃費をできるだけよくしようと運転するところに楽しみを感じます」と答えてくれました。さらに「エコの時代に一人ひとりが低燃費で運転することは地球にとっても大事なことだ」と目を輝かせながら主張し始めたのです。その時、私は気付きました。ご子息さんの関心に火をつけてしまったことを・・・。
それから話は続きました。燃費がよくなる車の運転の仕方、大切な部品、最後には車の軽量化を維持するため、ガソリンは満タンにはしないとまで言いだしたのです。妥協を許さないその性格から、彼女がいない理由が何となくわかったように思いました。
すると、話を聞いていたお母さんから一言、「そんなに車を軽くしたいのなら、まず先に自分の体重を減らせばいいのにね」と。確かに息子さんはふくよかな方でしたので、思わず笑ってしまいました。まさに〝灯台下(もと)暗し〟です。
お寺に帰り、住職にその日の出来事を報告しました。すると住職は「ありがたいことだね」と笑みを浮かべながら「ナンマンダブナンマンダブ」とお念仏を称え始めました。
後生の一大事を心に
私たちはついつい目先のことに惑わされ、気付けば足下が見えていないことがあるものです。例えば、生きていることが当たり前のように思いながら日々を過ごしていることも同じではないでしょうか。
蓮如上人は「白骨の御文章」で「われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず」(わたしが先か、人が先か、命の終わりを迎えるのは今日とも知れず、明日とも知れない)と、私の命のあり方を示されています。確かにテレビや新聞を見ていても、老若男女を問わず、亡くなる方の報道は後を絶ちません。思えば私の命も死の縁にあえば、むなしく果てるだけです。生きていることは当たり前のことではありません。足下をみれば、いつ死ぬのかわからない無常の世界を生きているのです。
私は死んだらどうなるのでしょう。どうなるのかわからなければ不安でたまりません。だからといって、死ぬことを考えず不安を忘れようとしても、本当の解決にはなりません。だからこそ蓮如上人は「たれの人もはやく後生(ごしょう)の一大事を心にかけて」(どなたも早く浄土往生の一大事に真剣に心を向けて)と、死の不安を解決できる浄土往生に一刻も早く心を向けなさいとお示しくださっておられます。
「南無阿弥陀仏」というおはたらきは、私が安心して死んで往ける世界を調えてくださるおはたらきです。そのおはたらきに出遇(あ)えば、私の命は安心の中に包まれます。安心できる人生を歩むことは、人生の有り難さに気付かせてもらうことともなるでしょう。
住職の称えたお念仏には、そのような世界がひろがっていたのです。ちなみに住職の「ありがたいことだね」という言葉の前には「足下は阿弥陀さまに照らされているんだから」という一言がありました。