シラーの「歓喜の歌」③第三節~死で試された友とは?~

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コラム
過去の「第九歓喜の歌」ブログ連載では、この部分の解釈を「喜びが、私たちに生命の木、そして死で試された友=キリストを与えた」、と解釈しておりましたが、改めてシラーの詩の全体に目を通すと、キリストを名指しで限定的な存在として登場させるのは違和感になってきてしまいます。

ギリシア的な神々の世界観、ガイアや宇宙的な世界観からしたら、ここではキリストという存在はそぐわない気がしてきます。

Freude trinken alle Wesen
 An den Brüsten der Natur,
 Alle Guten, alle Bösen
 Folgen ihrer Rosenspur.
すべての存在は喜びを、自然の乳房からもらう。
善なるものも、悪なるものも。
自分のバラの道に従うのだ。


 Küsse gab sie uns und Reben,
Einen Freund, geprüft im Tod.
 Wollust ward dem Wurm gegeben,
 Und der Cherub2 steht vor Gott.
喜びが、私たちに祝福を与え、ブドウの木(生)を与えた。そして死で試された友を与えた。
快楽は虫に与えられる。
そして、ケルビムが神の前に立つ。

Reben、ブドウの木。前回ベートーヴェン「第九 歓喜の歌」の時は、カバラにおける「生命の木」として解釈したが、Leben、つまり「生命」そのものと解釈した方が自然。
それに、全体的なギリシア・ローマの世界観からすると、ブドウと来たらディオニュソスという神がいる。豊穣の神、または酒飲みの神バッカスです。

前回、ここに気づかなかったのはアホすぎる。。。だけど、当時はカバラの「生命の木」に固執してしまっていたので、この可能性には気が付かなかったんです。てへ。

この神様の出生が妙なお話で紹介されています。ゼウスと人間の女性との間の子なんですけど、母親の方が例によってヘラの嫉妬で妊娠中に死んでしまいます。
そこで、まだ胎児だったディオニュソスをゼウスは自分の太ももに縫い込んで守ります。そこで、ディオニュソスは「二度生まれた」とか「死と復活」とか、自然のサイクル・循環など象徴しているそうです。「なんで?!」って思うけど、そこは古代ギリシア人に聞いてくれ。

死で試された友、という意味にも繋がりそうな雰囲気です。
古代ギリシャで、ディオニュソスの祭礼ではワインが飲まれていた。
ワインを飲んで、恍惚状態の中で死と再生を体験。
それで、ワインは死後の世界、再生の象徴として捉えられる。
ディオニュソス教は、キリスト教が広まるまで割と人気のある宗教だったようです。

「喜びが、私たちに祝福を与える。そして生も死も祝福なんだ」という意味じゃないか?
死で試された友=ワインのことじゃないか?死後の世界、再生の象徴としてのワイン。

だから、「喜び」さんは、ブドウ(生)とワイン(死)をくれた。
生まれると、私たちは「死」というものをセットにして渡される。調和を大事にする世界では、生も死も、敵同士ではないはずです。自然のサイクルなんですから。
生も死も、調和・循環という原則通り、そういうことじゃない?

ディオニュソス教は、輪廻や再生、自然のサイクル、循環、死後の世界や来世の希望、ゲーテの信仰していたというオルペウス教とも共通点があるようです。
・・・キリスト教、よくこの宗教に対抗できましたね。私的にはこっちの方が断然受け入れやすいです。私はお酒飲めないけど。

ここではキリストを連想しなくてよかったんです。
生も死も祝福であるので、「原罪」など背負っておらず、「最後の審判」は罰じゃない。そもそもそんなもの、なかったんです。
キリスト教的な意味を考えなくてよかったんです。

自分がキリスト教的なイメージにとらわれすぎてしまってた・・・。今となっては恥ずかしい。っていうか、馬鹿すぎてもう飽きれる。ドヤ顔でブログ書いていた2022年年末・・・楽しかったからいいけどさぁ。

今回シラーの「歓喜の歌」を書くにあたって、何度か過去のブログを読み返したけど、恥ずかしかったぁ。アハハ。
ちっげーよ!バーカ!って、何度叫んだことか。
まぁ、ここで言い訳しても恥の上塗りなんだがね、第九の「歓喜の歌」はシラーの詩の一部引用だから、分かりにくかったのかも。当時、シラーの詩までちゃんと読まなかったからなぁ。
過去の間違いに気づくことも、一つの発見で楽しい作業です♡

↑過去のあほあほ勘違い解説を見て笑いたまえ。

こう来ると、次の
・快楽は虫に与えられる
・ケルビムが神の前に立つ
この意味がはっきりしてきます。
「自然のサイクル」「喜びさんの世界観」と比較される対象として、虫とケルビムが出てくると考えてもいいだろう。

・・・今回、他の人の訳文を色々チェックしましたが、「快楽は虫けらにも与えられる」「快楽は虫にさえも与えられる」という訳をしているものが多いです。
Wollust ward dem Wurm gegeben
(快楽/be動詞みたいなやつ/虫/与えられる)
どーこーにー!!「にも」とか「さえも」という単語が入ってるんですかー?原文に使われていない単語のニュアンスを勝手に付け足してかく乱するの止めてもらえますか?
次、こんな訳出してくる奴いたらぶん殴る!!

ブドウとワインで生と死、自然と再生、循環を感じるギリシア的世界観に対して、キリスト教ときたら、せっかくの快楽、生命の喜び、生命の木になっている美味しそうな果実を、ケルビムに守らせて人間には近寄らせもしない。それで、虫に食わせてんだよ。もったいなくね?
こういう意味として捉えた方が、流れ的に自然ですよね。

・・・まさか、智天使ケルビムが「悪役」として登場するなんて、思わないじゃん(笑)このあたりで、自分で訳してて、「これ、大丈夫かな」という不安に襲われた。

キリスト教に限りませんけど、割と宗教は「死後の裁判制度」を設けています。仏教もそうですし。さらに、禁欲とか節制とか修行なんかをして、生きているのに死んだようになって、いや、生きている間に「死の予行練習」をさせようとするようなものすらある。
「生」の忌避によって、「死」の排除をもくろんでいるような、本末転倒が「真理」みたいな顔をして、人々を怯えさせてきた。

キリスト教は快楽を虫にやってしまい、死んだように生きて実際死んだら最後の審判。
一方でワイン飲んでどんちゃん騒ぎ、ぐでんぐでんになるまで飲んで騒いで楽しんで・・・生を享受したって神を感じることはできる。
・・・だんだん酔っ払いのお酒賛歌に見えてくるな、これ。

意識ない状態になるまで酒飲むことこそ神聖な儀式なり!!という感じですね。
生きていること、快楽、思う存分楽しんで受け入れてしまえよ。
喜びを禁止したり制限したりするのは「生」に対する冒とく。

生きること、喜びとインスピレーション至上主義、デュオニュソス教、入信したくなりました!!

次回は、キリスト教的唯一神、「創造主」が再登場♡
そしてボッコボコにされる?!
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