第九「歓喜の歌」その四~今度は世界観がバラバラ事件~

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コラム
軽い気持ちで始めた、原文で味わいたいシリーズ。
まさか、こんなに複雑化するとは思わず・・・「歓喜の歌」、もしかしたら年内完結無理かもしれん。でも頑張る。

「歓喜の歌」の日本語訳で頭にハテナマークを付ける人、多いのではないでしょうか。私もうーん。。。ピンとこないんですよね。
やっぱりキリスト教的背景知識がないと無理なのかな・・・って。

引き続き、ウィキペディアの訳を拝借してみていきましょう。

Freude trinken alle Wesen
An den Brüsten der Natur;
Alle Guten, alle Bösen
Folgen ihrer Rosenspur.

ウィキペディアの訳↓
すべての存在は
自然の乳房から歓喜を飲み
すべての善人もすべての悪人も
自然がつけた薔薇の路をたどる

作家の尾崎さん訳
萬の物皆、自然を生きて、
並べての人皆、光に浴みす。

ここはさすが作家!尾崎さん訳が素敵です。
意味をがっちととらえて、日本的感覚でもしっくりくるよう、訳されておられますよねぇ。

Rosenspur、バラの道というと、「イバラの道」を連想、なんかすごい過酷な道なのではないかと思ってしまいますが、よい香りのする道、心地よい道というイメージでよいみたいです。

spurは、道というか、跡、足跡とかそんな感じです。
スキーをする人ならピンとくるでしょう。
シュプールのことです。

喜びは自然からもらうんだよ、みんなそうでしょ、そんな感じの部分ですね。
いい人も悪い人も、みんなそれぞれの自然の「バラの道」を行くのです。
自然の、自分の性質が誘導する方へ行くのです。心地よいと感じる匂いのする方へ、自分にしか嗅ぎ分けられない道を行くのです。

Küsse gab sie uns und Reben,
Einen Freund, geprüft im Tod;
Wollust ward dem Wurm gegeben,
und der Cherub steht vor Gott.

ウィキペディアの訳
自然は口づけと葡萄の木と
死の試練を受けた友を与えてくれた
快楽は虫けらのような者にも与えられ
智天使ケルビムは神の前に立つ

尾崎さん訳
友等と、力と、愛とを降す
御神の姿の在らぬ隈なし。

ほんと、尾崎さん、するっとめんどくさいところをスルーして、きれいに訳されていて・・・ずるい(笑)
その点、ウィキペディアの訳をした人は、真面目に原文に忠実に向き合って・・・玉砕しておられる(笑)

原文には忠実だが、日本語の意味が分からんという訳文になってしまってるね。
だが、ウィキペディアの人、私はあなたのような愚直で真面目な人が好きだよ!
骨は拾ってやる!後は任せておけ!!
・・・と、かっこよく登場したはいいが、早々に敗北ということのないようにしていきたいものです。

まず大きな問題は、このケルビムなんですよね。
尾崎さんは「御神の姿の在らぬ隅なし」と、意味をかなりくみ取っていらして、すごいんですが・・・

確かにケルビムは、ネット情報によると、正面は人の顔、後ろはワシ、左右にライオンと牛の顔があり、羽がついている天使。智天使ケルビムの情報が色々出てきます。
四方に顔があって同時にチェックできる天使さんですから、尾崎さんの訳通り、確かに隅なしです。

それで、そういう天使さんが、神の前に立っていたら、なんだというのです?

うぅ、私、キリスト教概論取ってたけど、あんま詳しくないんですよねー。日本における一般常識の範囲内のことしか知らないです。キリスト教徒の人や、聖書研究、西洋哲学を専門に勉強された方だったら、何かちゃんとしたことを言えるでしょうけど・・・

ケルビム登場前の部分を丹念に読んでみる必要が出てきます。

Küsse gab sie uns und Reben,
Einen Freund, geprüft im Tod;
Wollust ward dem Wurm gegeben,
und der Cherub steht vor Gott.

この辺からイメージが、キリスト教の世界観になってきます。
Reben・・・ブドウの木
Einen Freund, geprüft im Tod・・・死で試された友
とくれば、これが指しているのはイエス・キリスト。

いや、もうネットって便利ですよねぇ。
検索したら「唐草図鑑」というページがヒットして、「西洋シンボル辞典」の紹介をしてくださってました。
アマゾンで、「西洋シンボル辞典」7890円。うぉ、高い・・・。
今の私じゃ無理だぁ、買えない。

で、その情報を拝借しますと、
ブドウの木は、他の果実と同様、祝福であり呪い。
平穏・平安・財産、そして迫りくる審判。
イスラエルの民
生命の木、十字架の象徴
ブドウの収穫は、最後の審判を暗示

はい。
ケルビムが神の前に立つ。
この意味、私、わかっちゃいました!
と言っても、私の中での解釈がまとまったというだけの話なので、みなさんはみなさんなりの理解、解答があると思うので、私の意見はそれとして聞いてくださいね。

自然が誘導するバラの道を行くと、私たちは祝福のキスを受ける。
ブドウの木(生命の木)、つまりイエス・キリストも、このキスを受けた。つまり、自然が誘導するこのバラの道を、自然の導く通りに辿ったのだ。

こんな感じの意味ですっきりしません?

で、次の文、Wollust ward dem Wurm gegeben
Wollustは、七つの大罪の一つ、肉欲・色欲を意味します。
Wurmは、虫けらというよりは、毛虫とか幼虫みたいな虫です。未発達の虫のニュアンス。
ドイツで、Wurmと呼ばれるお菓子があるんですが、キャラメルコーンみたいな形をしているスナック菓子です。あんな感じのイモムシをイメージしてください。

肉欲の喜びは、イモムシに与えられる。
つまり、レベルの低い人間は、それなりの喜びしか感じられないですよ、と。
ヤリたいだけのやつらには、勝手にやらせておけよ、所詮その程度のイモムシだ、みたいな感じ。

だって、自然が誘導する方向へ、バラの道をたどったら、イモムシの世界に着いた。それはその人のレベルが低かったということだから。
レベルの高い「愛」の喜びは、イモムシには与えられません。たとえ、与えられたとしても、理解できないでしょう。「愛」に至るバラの道は、イモムシには示されない。イモムシの方でも、そのバラの道は見えないし、辿れないようにできているのです。

自分の性質、自然の誘導する通りに行くしかない。それでいいのだ、バカボンのパパ。最終的な結果、最後の審判では「これがオイラです!」って主張するしかないし、それを自分で受け入れるしかないよねって。

そうくれば、ケルビムが神の前に立つという意味が、「あ!」と分かる。
ブドウの木のシンボル的意味、キリスト、そして神の前に立つ・・・
ここは、最後の審判のことを言っているのですね。

まとめるとこうです。
人はそれぞれ、自然から与えられた道をたどるようにできている。
悪い人もいい人も、それなりの道を行くのだ。
自分の本能、性質に従い、それなりの道を行き、最後は審判を受けるのだ。

こう理解すると、はいはい、なるほどと分かりやすいというか、ちょっとわざとらしいほど、ベタな詩に見えてきてしまいます。
だって、ここまでくれば、ベタベタなベタで、カバラ的世界観になってきているんですもの!

世界観がバラバラ・・・カバラだけに!

というわけで、次回は満を持して、ついにタロットカードが登場!
タロットさん、出番よ!支度して~!!
続く☆
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