第九「歓喜の歌」その三~同じ文なのに解釈がバラバラ事件~

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コラム
引き続き「歓喜の歌」のお話。
今回は、あら不思議?!
原文から、まったく別解釈の訳文が生まれるというケースを目撃していただきたいと思います。

ご興味のある方は、ウイキペディアの「歓喜の歌」のページを開いてみてください。

Wem der große Wurf gelungen,
Eines Freundes Freund zu sein,
Wer ein holdes Weib errungen,
Mische seinen Jubel ein!

Ja, wer auch nur eine Seele
Sein nennt auf dem Erdenrund!
Und wer's nie gekonnt, der stehle
Weinend sich aus diesem Bund!

この部分です。

ウィキペディアに二つの種類の訳文が載っています。
一つはどなたが訳したのか分かりません。
もう一つの訳は、尾崎喜八さんという作家さんが訳されたもの。

ひとりの友の友となるという
大きな成功を勝ち取った者
心優しき妻を得た者は
自身の歓喜の声を合わせよ

そうだ、地球上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ
そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい

尾崎さん訳では

心の友垣、操の妻を
かち得し者等は集ひて歌へ。
己を憑みて驕れる者に、
此の世の眞の歡喜有らじ。


訳の明確な違いにお気づきでしょうか。

上の訳では、
一緒に歓喜の歌を歌っていいのは
・心通じあう友がいる人
・気立ての良い妻がいる人
・心を分かち合う魂があると言える人

尾崎さんの訳では
・心通じあう友がいる人
・気立ての良い妻がいる人

そして、「この場から立ち去れ」、「お前に歓喜なんて来ねぇよ」と踏んだり蹴ったりな扱いされているのは、
上の訳では
・友も妻もいない上、心を分かち合う魂もない人。

下の訳では
・自分のことばっかりの人(己を憑みて)
・傲慢な人(驕れる者)

Ja, wer auch nur eine Seele
Sein nennt auf dem Erdenrund!

この部分の解釈が違うため、このような訳文の違いが生じているのです。

私も、詩というのは構造や形式で遊ぶものだと思っているので、尾崎さん訳寄りの解釈をしたくなっています。

AとB、二つの対比をするのに、双方の例が2個ずつで、ちょうどいいと考えるからです。

AとB、この部分が詩の中で、対比の構造になっていると解釈すると、
A「歓喜の歌」を歌っていい人
B「歓喜の歌」を歌ってはいけない人
この二者の違いを羅列して比較、説明している、という部分だということになります。

Ja そうだ、
wer という人、英語でいうところの関係代名詞、whо。
auch 英語のalso、~もまた、とかそんな感じの意味
nur eine Seele 一つの魂だけ
Sein 自分のもの
nennt 呼ぶ、名付ける
auf dem Erdenrund! 地上で

魂の扱いが肝なんですね、ここ。

上の訳では、「たった一人でも心を分かち合う魂がある人」
尾崎さんの訳では「自分の魂一つしか持ってない身勝手なやつ」

上の訳のおかしな点に気づきますか?
心を分かち合う魂・・・それには、魂が二つ必要なんですが!!
つまり、友や妻がいる人と同様、誰かと分かち合うには魂は二つ必要なんです。
自分の魂と、相手の魂。
原文には、明確に「たった一つの魂」と数量指定されているのです。
勝手に魂の数を増やしてはいけません。

この部分では、魂は一つだと原文で限定されているので、上の訳の解釈は違うということになります。

魂を一つしか持っていない人。それがいいのか悪いのか、そこが解釈の分かれ目のようです。
尾崎さんは、友も妻もいない、自分の魂しか持ってないやつは、エゴイストだ!と解釈しておられるようです。

普通にいい人だったら、友の一人もいるだろ、結婚だってできてるだろ?それができないやつ、魂一つしか持ってないやつはエゴイスト!だから、歓喜の歌の仲間には入れないよ!という解釈も、別に不思議ではない。
AとBの対比構造にも合致する。

だが、この部分は、友も妻もいない孤独な人を指すと理解するのが親切でしょう。
自分の魂一つしか持っていない人。誰とも分かち合えない人。
・・それだけで、その人が身勝手で傲慢だと断罪することはできません。

孤独だけど、友もいないし、妻もいないけど・・・ちょっとコミュ障で、口下手なだけで、いい人っているじゃん!
自己主張できず、周りから誤解されているけど、捨てられた子猫を抱き上げて連れ帰るような「優しぼっちさん」っているじゃん。

そういうお前も歓喜の歌の輪に入れよ!とりあえず、魂を一つは持ってるんだからさぁ!と、隅っこでポツンしている人にも声をかけてくれているのです、優しい!シラー!

・・・という解釈の可能性が出てくるのです。

たった一つの魂を「自分のものだ」と言える人。
つまり、自分の信念をちゃんと持っている人。
たとえ、誰からも理解されず、誰とも親交を結べなかったとしても、この喜びの歌を歌っていいよ!
だって、お前、本当はいいやつじゃん!

歓喜の歌を歌っちゃいけないのは、友もいない、妻もいない、そして信念もないようなやつ。

・・・自分で書いておりながら、ぶわっと(´;ω;`)泣きそうになってしまっているのですが!

くりぼっち決定の方がもし読んでくださっていたら・・・歓喜の歌、歌ってね!そしたら、みんな仲間なんだよ!シラーの時代からずっと続く、理解されない孤独を感じていた人たち、歓喜の歌の仲間があなたの周りにいるんです。大丈夫!

また、ヨーロッパ的魂を考えた時、登場いただきたいのが悪魔です。
ご興味のある方は私が過去に書いたブログ記事を読んでみてね。


自分の魂を自分のものと言えるのは、悪魔に魂を売ったことのない人という解釈も全然あり。むしろそっちが正解かもです。

悪魔と魂をかけた取引をせずに、真っ正直に生きている人。
ズルしたり、不正をしたり、他人を陥れたり・・・悪魔に魂を譲り渡したこともなく、まっさらな魂を持っているって言える人のこと。

たった一つ魂を、誰かと分かち合えなくても、しっかり持っている人のことです。

魂を一つでも持っていれば、喜びを感じることができるはず。
魂を一つも持っていないやつもいるんだぜ?
それを大事にしろよ、お前、気づいてないだけで相当幸せ者なんたぜ!

なーんて、解釈も可能になってきます。
色々な解釈ができると楽しいですね。

この部分は、AとB、二者対比ではなく、
魂2つか、それ以上(自分の魂+友または妻の魂、その両方、複数の友を持っているケースも考えられます)。
魂1つ、少なくとも自分の魂はある
魂0、友も妻も持ってない上、自分の魂もない
という三段落ちの構造になっていたというわけです。
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