(後)不条理の雨の中で、真言を唱える

(後)不条理の雨の中で、真言を唱える

記事
コラム
 私が30歳のころにうつ病(当初は不安障害)を患ってから、今年で21年目を迎えます。
 こうして今、自らの歩みを振り返り、文章を執筆できているのは、ひとえに「人のつながり」に恵まれていたからに他なりません。

 初めて診ていただいた主治医との縁は今でも途切れていませんし、私にカウンセリングを授けてくれた師は、私のことを深く理解してくれている人物でした。
 さらに言えば、仏門における私の師僧は、私の高校時代の恩師でもあったのです。
 こうした温かな縁には、感謝の念に堪えません。

 しかし、うつ病という病を患ったことに対して、私の中に「不条理」を感じる気持ちが全くないかと言えば、それはまた別の話になります。
 一人の僧侶として、日々の生活の中で読経に耽り、真言を唱え、月輪(がちりん)の瞑想を行う時間は、私にとって大切なひとときです。
 その静寂の中では、しばし自分がうつ病であることを忘れたり、胸を占める悲観的な感情を小さく収めたりすることができます。
 けれども、一人の人間として「なぜ自分がうつ病にならなければならなかったのか」と思いを巡らせるとき、そこにある理不尽さに、どうしても心が震えてしまうのです。
 時には、読経の最中に当時の苦しい感情がフラッシュバックし、朗々と流れていたはずの経文が、ふっと途切れてしまうことすらあります。
 そのようなときは、一度じっと瞑想の状態に入り、心を調えてから、りんを1丁鳴らし、再び静かに読経を始めます。

 うつ病に罹患するという経験は、まさに理不尽であり、「不条理」そのものであると言えます。
 その不条理さの根源は、人間の倫理観や日々の努力が、病という生物学的な現実の前で、あまりにも無力に遮断されてしまうという矛盾にあります。
 この病が徹底的に不条理である理由は、主に4つの側面に集約されるのではないでしょうか。

第一
 「因果応報」が通用しないという点です。私たちの社会には「努力は報われる」「悪いことをしなければ罰せられない」という道徳的な秩序への期待があります。しかしうつ病は、個人の善悪や真面目さとは無関係に、ある日突然襲いかかります。むしろ、周囲に気を遣う優しい人や、責任感が強く誠実に努力を重ねてきた人ほど、脳のキャパシティを超えて発症しやすいという、あまりにも理不尽な逆転現象が起こってしまうのです。

第二
 「意志の力」そのものを奪ってしまう点です。身体の怪我や多くの病気であれば、「治そう」「頑張ろう」という本人の意志を心の支えにして闘病することができます。しかしうつ病は、脳の神経伝達物質の機能障害などによって、その「意欲」や「希望を持つ力」そのものを物理的に減退させてしまいます。
 頑張りたいと願っているのに、頑張るためのエンジンそのものが損なわれている。この構造自体が、極めて残酷で不条理です。

第三
 「現実を正しく見ている側」が病とされる点です。心理学には「抑うつリアリズム」という仮説があります。健康な人は、自分の能力や未来を実際よりも少し都合よくポジティブに捉える、いわば「健康な錯覚」を持っています。
 一方で、軽度のうつ傾向にある人の方が、物事の成功確率や自分の影響力を冷徹かつ正確に評価しているという実験データが存在します。「現実をより正確に認識している側が病と定義され、治療の対象になる」という事実は、どこか哲学的な不条理さを孕んでいます。

第四
 主観と客観の間に横たわる深いギャップです。うつ病は、骨折のようにレントゲン写真でその苦痛を他人に証明することができません。本人の内面では地獄のような苦しみが生じているにもかかわらず、周囲からは「怠けている」「甘えだ」と誤解されてしまうケースが後を絶ちません。
 この、内面の深刻な危機と外部の理解不足との断絶が、罹患した人をさらなる孤独へと追い詰めていきます。

 うつ病に罹ることは、決してその人の落ち度ではなく、ただ理不尽に激しい雨に打たれてしまったような、自然災害に近い現象です。
 決して人の生き方や人格が否定されるべきものではありません。

 実は、私たちが僧侶が、朝のお勤め(読経)するなかに、真言を唱える読経の最後には、「一字金輪真言(いちじきんりんしんごん)」という一節を唱える習わしがあります。(全てを記載は致しませんが「ボロン」と聞こえたら、それが一字金輪真言です)
 これは現代の言葉で簡単に表現するなら、「神仏の前でのお勤めの最中、もし読むのを間違えたり、途中で止まったりしてしまったらごめんなさい」と、自らの不完全さを素直に詫びるお経です。
 心が途切れてしまう自分も、不条理に立ち尽くす自分も、そのままでいい。
 そんな人間の不完全さをそっと包み込んでくれる教えに救われながら、私は今日も、静かに手を合わせています。

                         沙門蒼俊  合掌

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