(後)不条理の雨の中で、真言を唱える
私が30歳のころにうつ病(当初は不安障害)を患ってから、今年で21年目を迎えます。 こうして今、自らの歩みを振り返り、文章を執筆できているのは、ひとえに「人のつながり」に恵まれていたからに他なりません。 初めて診ていただいた主治医との縁は今でも途切れていませんし、私にカウンセリングを授けてくれた師は、私のことを深く理解してくれている人物でした。 さらに言えば、仏門における私の師僧は、私の高校時代の恩師でもあったのです。 こうした温かな縁には、感謝の念に堪えません。 しかし、うつ病という病を患ったことに対して、私の中に「不条理」を感じる気持ちが全くないかと言えば、それはまた別の話になります。 一人の僧侶として、日々の生活の中で読経に耽り、真言を唱え、月輪(がちりん)の瞑想を行う時間は、私にとって大切なひとときです。 その静寂の中では、しばし自分がうつ病であることを忘れたり、胸を占める悲観的な感情を小さく収めたりすることができます。 けれども、一人の人間として「なぜ自分がうつ病にならなければならなかったのか」と思いを巡らせるとき、そこにある理不尽さに、どうしても心が震えてしまうのです。 時には、読経の最中に当時の苦しい感情がフラッシュバックし、朗々と流れていたはずの経文が、ふっと途切れてしまうことすらあります。 そのようなときは、一度じっと瞑想の状態に入り、心を調えてから、りんを1丁鳴らし、再び静かに読経を始めます。 うつ病に罹患するという経験は、まさに理不尽であり、「不条理」そのものであると言えます。 その不条理さの根源は、人間の倫理観や日々の努力が、病という生物学的な現実の前
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