―「行けない理由がわからない」子の朝―
朝7時42分。
靴箱の前で、彼はスニーカーを履いたまま動かなくなった。
母親は、最初それを「迷っているだけ」だと思った。
「遅れるよ」
そう声をかけると、彼は小さくうなずいた。
けれど、立ち上がらない。
ランドセルは背負っている。
制服も着ている。
宿題も入っている。
昨日の夜には「明日は行く」と言っていた。
だから母親は、あと一押しだと思った。
「行けば大丈夫だよ」
その瞬間、彼の顔色が変わった。
手が震え、呼吸が浅くなり、ぽろぽろと涙が落ちた。
「なんで泣くの?」
母親が聞くと、彼は首を振った。
「わからない」
その言葉に、母親は苛立った。
理由がわからないなら、どうしたらいいのか分からない。
いじめなのか。
先生なのか。
勉強なのか。
友だちなのか。
どれか言ってくれれば、対処できるのに。
けれど、彼の中にも答えはなかった。
ただ、学校へ向かう朝になると、体が固まる。
頭が痛くなる。
お腹が痛くなる。
行きたい気持ちがないわけではない。
でも、行こうとすると何かが詰まる。
母親はその日、初めてこう言った。
「今日は、休もうか」
彼は驚いたように母親を見た。
責められると思っていたのかもしれない。
母親は続けた。
「理由は、今わからなくてもいいよ」
その一言で、彼は玄関に座り込んだまま、しばらく泣いた。
学校を休んだからといって、すぐ元気になったわけではない。
翌朝もまた、頭が痛いと言った。
数日後には、学校の話をするだけで黙り込んだ。
でも、母親は少しだけ分かった。
これはサボりではない。
この子の体が、もう限界だと知らせているのかもしれない。
それから母親は、朝の言葉を変えた。
「行ける?」
ではなく、
「今日は体、どう?」
と聞くようにした。
「学校どうする?」
ではなく、
「眠れた?」
と聞くようにした。
彼が最初に取り戻したのは、登校ではなかった。
朝ごはんを少し食べること。
リビングに座ること。
母親に「昨日、変な夢見た」と言うこと。
それだけだった。
でも母親には、それが大きな一歩に見えた。
不登校の始まりは、玄関で止まるところから始まることがある。
そのとき必要なのは、背中を押す力ではなく、いったん荷物を下ろさせてあげる勇気なのかもしれない。