―学校に行けなくなった中学2年生の、止まった時間―
朝の7時15分。
母親は、いつものように階段の下から声をかける。
「起きてる?」
返事はない。
もう一度、少しだけ大きな声で呼ぶ。
「今日、どうする?」
それでも返事はない。
ドアの向こうから聞こえるのは、スマホの通知音と、かすかなゲームの効果音だけだった。
中学2年生の春から、彼は学校に行けなくなった。
最初は腹痛だった。
次に頭痛。
そのうち、制服に袖を通すだけで顔色が変わるようになった。
「なんで行けないの?」
母親が聞いても、本人は答えられなかった。
ただ、布団をかぶって小さく言った。
「分からない」
その「分からない」に、家族は何度も傷ついた。
理由があるなら対応できる。
いじめなら学校に言える。
先生との関係なら話し合える。
でも、本人にも分からない。
だから、家の中の空気だけが少しずつ重くなっていった。
父親は最初、厳しく言った。
「逃げていたら何も変わらないぞ」
母親も最初は励ました。
「今日は保健室だけでも行ってみよう」
「一時間だけでもいいから」
しかし、そのたびに彼は朝になると動けなくなった。
行くと言った翌朝ほど、体調は悪くなった。
玄関まで行って、靴を履いたまま座り込んだこともある。
やがて、家族は学校の話をしなくなった。
彼の部屋のカーテンは、昼になっても閉まったままだった。
机の上には、開かれない教科書。
床には、ペットボトル、菓子の袋、脱いだ服。
ベッドの横には、充電器につながれたスマホ。
部屋の中だけで、生活が完結していた。
昼に眠り、夕方に起きる。
夜中にゲームをする。
朝方に少しだけ眠る。
風呂に入らない日が増えた。
歯磨きもしない。
食事は、母親がドアの前に置いた。
食べ終わった皿は、何時間もそのままだった。
母親は最初、それを見るたびに泣きそうになった。
「このまま、この子は壊れていくのではないか」
でも、ある日、少し違うことが起きた。
夜11時。
母親が台所で洗い物をしていると、彼が階段を降りてきた。
髪は乱れ、顔色は悪かった。
けれど、冷蔵庫の前でぼそっと言った。
「なんか、食べるものある?」
母親は、驚いて振り返りそうになった。
でも、こらえた。
「うどん作ろうか」
彼は小さくうなずいた。
二人は何も話さなかった。
ただ、湯気の立つうどんを彼が少しずつ食べる音だけが、深夜の台所に響いた。
それは、登校ではない。
勉強でもない。
劇的な回復でもない。
けれど母親には、その沈黙の食事が、長いトンネルの中で初めて見えた小さな灯りのように思えた。
不登校の子は、何もしていないように見える。
でも実際には、見えない場所で必死に耐えていることがある。
学校に行かない時間は、怠けの時間ではない。
崩れた心と体が、もう一度生きる力を取り戻そうとしている時間なのかもしれない。