―「大丈夫」と笑っていた子が、ある日動けなくなった―
高校1年の秋。
彼女は、突然学校に行けなくなった。
それまで、周囲からは「明るい子」と言われていた。
友だちもいた。
部活にも入っていた。
成績も悪くなかった。
家では、母親に学校の話をよくしていた。
「今日、先生がさ」
「友だちと帰りにコンビニ寄った」
「文化祭、ちょっと面倒だけど楽しみ」
そんな普通の日々が続いていた。
しかし、母親はあとから気づく。
娘の「普通」は、少しずつ削れていた。
朝、洗面所に立つ時間が長くなった。
制服を着たまま、鏡の前で固まる日が増えた。
夜になると、スマホを見ながら表情が消えていた。
「何かあった?」
母親が聞くと、娘は笑った。
「別に。大丈夫」
その「大丈夫」は、助けを求める言葉だったのかもしれない。
ある月曜日。
娘は玄関で靴を履いたまま動かなくなった。
母親が声をかける。
「どうしたの?」
娘は答えない。
ただ、呼吸が浅くなり、手が震えていた。
しばらくして、ぽつりと言った。
「行けない」
それから、娘の生活はリビングのソファを中心に回るようになった。
自分の部屋には行かない。
家族がいるリビングで、毛布にくるまって眠る。
昼間はうつろな目でテレビを見ている。
夜になると少し元気になる。
深夜に急に話し出すこともあった。
「私、何が悪かったのかな」
「みんな普通に行ってるのに」
「私だけ止まってる感じがする」
母親は答えられなかった。
励ましたい。
でも、励ますと傷つける気がした。
休ませたい。
でも、休ませるほど戻れなくなる気がした。
学校から電話が来るたびに、母親の胸は締めつけられた。
「本人はどう言っていますか」
「今後の見通しはありますか」
「課題だけでも提出できますか」
見通しなど、あるはずがなかった。
娘自身が、自分の明日を見失っていた。
ある日、母親が掃除をしていると、ソファの下からノートが出てきた。
そこには、短い言葉がいくつも書かれていた。
「学校が怖い」
「朝が来るのが怖い」
「みんなに置いていかれる」
「家にいても申し訳ない」
「でも外に出るのも怖い」
母親は、そのノートを読んで初めて分かった。
娘は休んでいるのではなかった。
毎日、戦っていた。
学校に行く恐怖。
行けない罪悪感。
家にいる申し訳なさ。
将来への不安。
その全部を、ソファの上で抱えていた。
その夜、母親は娘に言った。
「今は、学校のことを決めなくていい」
娘は黙っていた。
母親は続けた。
「生きていてくれたら、それでいい」
娘の目から、涙がこぼれた。
それは、解決ではなかった。
次の日から学校に行けたわけでもない。
生活リズムが急に整ったわけでもない。
でも、その日から娘は、少しだけ食卓に座るようになった。
母親の淹れたお茶を、黙って飲むようになった。
不登校の苦しさは、外からは見えにくい。
家にいるから安全に見える。
スマホを見ているから楽をしているように見える。
昼まで寝ているから怠けているように見える。
けれど、その内側では、子どもが自分を責め続けていることがある。
だから私は、不登校の子にまず必要なのは、説得ではなく安心だと思っている。
「戻りなさい」より先に、
「ここにいて大丈夫」
その言葉が、子どもを少しずつ現実へ戻していく。