私たちが生きている世界は、
思っている以上に「塗り絵」に近いのかもしれません。
教育やメディアを通して、
こう生きるべきだ、
これが幸せだ、
これが成功だ、
そんな輪郭が、先に示されます。
その絵の中でなら、
好きに選んでいいと言われる。
それが常識で、
それが自由だと。
その枠しか知らなければ、
疑問を持つ理由も、あまりありません。
どの学校に行くか。
どんな仕事をするか。
結婚するか、しないか。
子どもを持つか、持たないか。
「ほら、自由に選べるでしょう」
そう言われて育ってきた人は、少なくないはずです。
けれどそれは、
色を選んでいるようで、
実際には「選ばされている」だけかもしれません。
「好きな色で塗っていいよ。
はみ出さなければね。」
現実の線は、塗り絵のように目には見えません。
だからこそ、人はいつの間にか、その中に収まっていきます。
「普通はこうする」
「みんなそうしている」
「はみ出さなくなれば一人前」
その線は、
良識や当たり前という名前の、
透明なインクで引かれています。
透明だから、疑われにくい。
疑われないから、正しいものとして扱われる。
そして、はみ出したとき、
線を疑う人はあまりいません。
疑われるのは、いつも、はみ出した側です。
「自分が悪い」
「努力が足りない」
「向いていなかった」
こうして自責や他責の形で、
線そのものは守られます。
たとえ窮屈でも、
たとえ息苦しくても、
そのほうが安心できるからです。
塗り絵のいちばん怖いところは、
不自由なことではありません。
自由を与えられていると、
思わされることです。
どれだけ色を工夫しても、
遠目から見れば完成図はだいたい同じ。
どれだけカラフルに塗っても、
並べてみれば、同じ形をしています。
それでも人は、
なかなか塗り絵を手放せません。
なぜか。
塗り絵の中にいれば、
失敗を線のせいにできるからです。
色の種類が少なかった。
与えられた絵が好きじゃなかった。
教えられた通りにやったのに、はみ出した。
消せる道具を渡されなかった。
だから、自分は悪くなかった。
こう言える場所は、とても安心です。
同じ仲間もいるでしょう。
一方で、白紙はまったく違います。
正解も、見本も、完成図もない。
どこから描いてもいいし、
何も描かなくてもいい。
ただし、
線を引いた瞬間から、
その歪みも、浅さも、過剰さも、
すべて自分のものになります。
誰のせいにもできない。
線が弱ければ自分の弱さ。
雑なら雑さ。
壊れていれば、壊したのも自分。
だから白紙は、自由であると同時に、
自由と同じ分だけ、容赦なく責任を突きつけてきます。
日本の塗り絵は、線が太い。
一ミリはみ出しただけで、すぐ修正が入る。
「違う」
「それはおかしい」
「普通はこうだ」
修正液は速く、消しゴムは容赦がない。
線から外れた痕跡は、白く塗りつぶされるか、
最初からなかったことにされる。
そうやって、「描く」という行為そのものが、
危険なものとして学習されていく。
だから、塗り絵を捨てた人は、後悔も多い。
評価されない。
理解されない。
うまくいかない。
そして、こう考える。
「あの線の中に戻ればよかった」
「あっちのほうが、楽だった」
実際、楽な人もいるでしょう。
塗り絵の中では、
失敗は「自分の問題」ではなく、
社会の構造の問題にできるからです。
白紙では、そうはいかない。
線を引いたのは自分。
歪んでいても、薄くても、それはすべて自分の筆跡です。
立派な絵を完成させる必要はありません。
それ自体が、塗り絵の世界で刷り込まれた発想だから。
自分の中にある、不格好な違和感を、
外側の線に合わせず、感覚のまま描いてみること。
上手かどうか、評価されるかどうかでもない。
「自分が描いた」という事実だけが残る。
それに耐えられない人は、また塗り絵を探しに行きます。
新しい成功法則。
新しい生き方。
新しい正解。
線は、何度でも買い直せる。
でも、線はただの線です。
あなたは、どちらの絵を見せたいですか。
それとも、塗らない?