支援者が無自覚に立っている場所
対人支援の現場では、物事が二つに分けられることが多いと感じています。
善と悪
健全と不健全
自立と依存
正しいと間違い
「あの人は依存的だ」
「まだ健全な状態ではない」
こうした分類は、理解を助ける整理になると同時に、
立ち位置を固定する装置にもなります。
反対側を設定した瞬間、支援者は自動的に「こちら側」に立ててしまうから。
「熱い」と「冷たい」という概念がある。
実際には、温度という一本の線の上に違いがあるだけ。
でも人は、説明のために線を引く。
線が引ければ、そこで思考は止まる。
考えなくていい。
同じ線上に立たなくていい。
クライアントは
「まだ気づいていない側」
「手放せていない側」
「課題を抱えている側」
支援者自身は
「分かっている側」
「健全な側」
「すでに通過した側」
ここに悪意はない。
多くの場合、善意によって自然に起こるから。
反対側に置けた瞬間、支援は安全な作業になる。
相手を理解し、段階を見極め、学んできたものを適切に提供する。
そこでは、支援者自身が巻き込まれる余地はほとんどない。
安全な場所から、用意してきたものを差し出せる。
それで、大丈夫だと思えてしまう。
「こちら側」に立っている限り、
自分の迷い、矛盾、未整理さは、
すでに解決済みであるかのように扱われる。
あるいは、あってはいけないものとして、そっと目をつぶられる。
自覚し始めた瞬間、「支援者」という足場は揺れ始める。
分かっている人でいられない。
導ける人でいられない。
安全に説明できる人でいられない。
支援の場で、それは怖い。
だから、線が必要になる。
反対側が必要になる。
「自分は違う」と言える場所が欲しくなる。
正しさは、快適な場所。
分かりやすい構図は、思考停止と隣り合わせ。
支援者が「正しい側」に立つためには、
どこかで相手が「間違っている」必要が生まれます。
正しさは単独では成立しないから。
常に、相手によって保たれる。
それは、共依存。
「相手が間違っている」
「相手がずれている」
この前提がある限り、自分の立ち位置は揺れない。
自分は正しく、健全で、導く側でいられる。
この安定は、防御の反応。
崩れたくないという本音。
自身の未整理に触れないための、無言の選択。
「理解できない相手」は、扱いやすい分類になる。
「話が通じない」
「まだそこまで行っていない」
「今は無理な段階」
それらは、相手の状態を説明しているようでいて、
同時に、自分が揺れずにいられる位置を守っている。
同じ揺れに触れたとき、人は急に冷静でいられなくなる。
冷静でいようとするほど、本来向けるべき場所から視線を外していく。
その結果、「段階」や「理解度」という整理が、
無意識の防波堤として使われることがある。
未整理な部分に、そのまま立ち続けられないという現象。
そしてもう一つ。
支援者の中には、立ち続けないと壊れてしまう人もいる。
反対があると、責任を分けられる。
これは相手の課題。
これは社会の問題。
これは過去のトラウマ。
確かに、そうした側面はある。
だが線を引いた瞬間から、自分がどこまで関わっているかは見えなくなる。
支援は、常に相互作用だ。
こちらの未整理も、相手の未整理も、同じ空間で混ざる。
それを「相手だけの問題」にできた瞬間、支援者は安全になる。
安全になった瞬間、支援者はいなくなる。
正しい側に立っていても、
善の側へ行ったとしても、
正解を握りしめていても、
反対側を作っていても、
相手を分類しながら、自分だけが安全圏にいたとしても。
そうしている自分を、知ること。
その自分を知りながら、相手に全力で向き合うこと。
今の自分を、なかったことにしないこと。
誠実さは、落ち着かない。
誠実さは、居心地が悪い。
それでもそこに立つと決めること。
それが、支援に関わる者に求められる覚悟だと思います。