見えない縄、見せかけの自由――ダブルバインド

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コラム
人を縛る善意 

日常の中で矛盾したメッセージは多くあります。
それも、「正しさ」や「善意」の名のもとに。

たとえば、親が子どもに言うこんなセリフ。

「もう子供じゃないんだから、自分で考えて行動しなさい」
「親の言うことは黙って聞きなさい。お前はまだ子供なんだから」

これは典型的なダブルバインド(二重拘束)の例です。
「自分で考えろ」と命じながら「私に従え」と命じる。
どちらを選んでも否定される、逃げ場のない構造。

人はずっと矛盾の中に置かれていれば、

どうすればいいかわからなくなってきます。



判断すれば怒られ、従えば否定され、
そうなれば、だんだんと自分で選ぶことが怖くなる。
心あたりないですか?





善意に見せた縛り

ダブルバインドは、巧妙な形で使われています。

たとえば、スピリチュアルの世界で耳にするこんな言葉

「良い悪いを判断してはいけない」
「ネガティブは手放しなさい」
「今ここにいなさい、でも変化を恐れてはいけない」

これらは、一見すると自由を与えてくれているように聞こえませんか。
しかし実際は、「判断することは悪」「ネガティブは不要」

といった隠れた判断・価値づけをしています。



つまり、表面的には「判断を捨てろ」と言いながら、
その実、「判断しているお前はダメだ」と言っている。
これが、見えにくいダブルバインド、
言っている本人も気づいていないかもしれません。




自分が気づいたときにはすでに
「ネガティブな自分を否定し続ける自分」

になっているかもしれないという怖さがあります。


思考停止は支配に使われることもあるみたいです。

依存させて、ずっとお客さん・・・




支配からの脱却――判断を超える「私」へ

では、この矛盾の構造からどうすれば抜け出せるのか?

それは、判断そのものを否定する必要もなくて、
また、「ネガティブを手放そう」と努力することでもない。

大切なのは、

「判断している私がいる」
「ネガティブを問題視している私がいる」
とただ気づくこと。



「判断しないように」と頑張っているとき、
すでに「判断=してはいけないもの」として、判断している。

このループを生んでいるのは誰ですか?

判断をあるようにしているのは、誰ですか?




怒っている自分も、ネガティブな自分も、
それをどうこうしようとする必要はない。

「判断している」
「否定している」
「どうにかしようとしている」

そのすべてを、ただ眺める。

そうしている自分を知るだけ。
そこには善悪も、良し悪しもない。
あるのは、観ている私だけだ。


自由は、外から、誰かから与えられるものではありません。
判断をあるようにしている私に気づくこと――
そこから始まります。


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