No,63 吉川元春~「本能寺の変」知り、秀吉追撃を主張~
吉川元春~「本能寺の変」知り、秀吉追撃を主張~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。
吉川氏は本姓藤原氏で、藤原南家の祖、武智麻呂(むちまろ))の子孫と称しています。名字の地は駿河国有度郡吉香(きっか)郷(静岡市清水区)で、鎌倉時代のはじめ、梶原景時一族が謀反を起こし京都に向かったとき、それを駿河で討ち取った一人に、吉香小次郎がいました。
また、1221(承久3)年の「承久の乱」のとき、吉香経景・義景兄弟が、宇治川を渡って敵と渡り合い、その功によって、経景に安芸国佐東郡(広島市)の地頭職が、義景には同じく安芸国山県郡戸谷(広島県北広島町)の地頭職が与えられ、安芸国に根を下ろすことになります。西遷御家人として、この後、「吉川氏」を名乗っています。
「毛利両川」本家支える
戦国時代には、吉川興経が毛利元就と同じランクの国人領主だったのですが、元就の力が強くなったとき、興経は、元就の次男元春を養子として迎えています。1547(天文16)年のことです。
一見平和裏にことが運ばれたようにみえますが、その3年後、元就は興経を殺していますので、元就による吉川家乗っ取り劇とされています。
この後、元春は1555(弘治元)年の厳島の戦いをはじめ、山陰・山陽、さらに九州各地での戦いにおいて、父元就に従い、小早川家を継いだ弟・隆景とともに大活躍をすることになります。
毛利家では、本家を継いだ長兄隆元が早くに亡くなったため、隆元の子輝元を、元春と隆景が補佐する態勢がしばらく続きます。吉川の「川」、小早川の「川」
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