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宇佐見りん『推し、燃ゆ』講評例#3

①「車酔いをしていた。額の内側、右の眼と左の眼の奥に感じる吐き気は、根深く、抉り出せそうになかった」(28頁)「額の内側」「右の眼と左の眼の奥」と身体部位を細かく指定した意図が気になった。身体感覚のリアリティを高めるためであれば、具体性を増したことで、かえって読者に医学的・解剖学的な読みを誘発する可能性がある。一方、医学的な正確さではなく、人物本人にしかにしか分からない主観的身体感覚を表現する意図であれば、この奇妙な局在そのものに意味が生じる。 リアリティを高めようとして具体化を重ねた結果、身体的位置と複数の比喩が競合し、かえって読者が〈吐き気そのもの〉より〈表現の仕方〉を意識してしまう。「根深い」は《根を張るもの》を想起させる。それを「えぐり出す」となると、今度は《肉の内部に埋まった異物》のようになるからだ。②「愚問だった。理由なんてあるはずがない。存在が好きだから、顔、踊り、歌、口調、性格、身のこなし、推しにまつわる諸々が好きになってくる。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、の逆だ。その坊主を好きになれば、着ている袈裟の糸のほつれまでいとおしくなってくる」(29頁) 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの逆だ」と述べた時点で、「坊主を好きになれば袈裟まで好きになる」という後続の意味は読者に推論可能である。その直後に「その坊主を好きになれば……」と展開するため、やや説明が二重化しているように感じた。ただし、「袈裟の糸のほつれまで愛おしい」は単なる反復ではなく、対象に付随するものだけでなく、その瑕疵まで愛おしくなるという意味を付加している。この像を生かすのであれば、むしろ先行する「坊主憎けりゃ袈裟
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「ぞっとした」と書かなくても、読者はぞっとできる――小説講評で私が見ていること

小説を講評していると、「間違いではない。でも、少し引っかかる」という文章に出会います。今回、こんな趣旨の一節を読みました。主人公が帰ろうとして机の中を確認すると、友人から借りていた数学の教科書が出てくる。返す約束をしていたのに忘れていた。しかも友人はその日の授業で使うと言っていた――という場面です。冒頭は、次のような構造になっていました。『推し、燃ゆ』25頁。帰ろうとして、机の中から引っ張り出したのは数学の教科書だった。ぞっとした。意味は十分わかります。しかし私は、二か所で立ち止まりました。「引っ張り出す」は、この場面に合っているだろうかまず気になったのが「引っ張り出した」です。「引っ張り出す」には、対象に働きかけて外へ出すという、比較的強い能動性があります。たとえば、「押し入れから古いアルバムを引っ張り出す」なら自然です。アルバムという対象を認識したうえで、それを取り出しているからです。ところが今回の場面で重要なのは、主人公が数学の教科書を取り出そうとしたことではありません。むしろ逆です。帰ろうとする。机の中を見る。数学の教科書を偶然見つける。そこで「返すのを忘れていた」と気づく。つまり、この場面の核は〈取り出す〉ではなく〈発見する〉ことにあります。そこで、帰ろうとして、机の中を片づけていると、数学の教科書が出てきた。あるいは、もっと削って、帰ろうとして、机の中を見る。数学の教科書があった。くらいでも成立します。私は後者のような書き方も好きです。「数学の教科書があった」その瞬間、主人公の中で記憶が立ち上がる。確か、ゆうちゃん、五限に数学があると言っていた。ここまで書けば、読者
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