小説を講評していると、「間違いではない。でも、少し引っかかる」という文章に出会います。
今回、こんな趣旨の一節を読みました。
主人公が帰ろうとして机の中を確認すると、友人から借りていた数学の教科書が出てくる。返す約束をしていたのに忘れていた。しかも友人はその日の授業で使うと言っていた――という場面です。
冒頭は、次のような構造になっていました。『推し、燃ゆ』25頁。
帰ろうとして、机の中から引っ張り出したのは数学の教科書だった。ぞっとした。
意味は十分わかります。
しかし私は、二か所で立ち止まりました。
「引っ張り出す」は、この場面に合っているだろうか
まず気になったのが「引っ張り出した」です。
「引っ張り出す」には、対象に働きかけて外へ出すという、比較的強い能動性があります。
たとえば、
「押し入れから古いアルバムを引っ張り出す」
なら自然です。
アルバムという対象を認識したうえで、それを取り出しているからです。
ところが今回の場面で重要なのは、
主人公が数学の教科書を取り出そうとしたことではありません。
むしろ逆です。
帰ろうとする。
机の中を見る。
数学の教科書を偶然見つける。
そこで「返すのを忘れていた」と気づく。
つまり、この場面の核は〈取り出す〉ではなく〈発見する〉ことにあります。
そこで、
帰ろうとして、机の中を片づけていると、数学の教科書が出てきた。
あるいは、もっと削って、
帰ろうとして、机の中を見る。数学の教科書があった。
くらいでも成立します。
私は後者のような書き方も好きです。
「数学の教科書があった」
その瞬間、主人公の中で記憶が立ち上がる。
確か、ゆうちゃん、五限に数学があると言っていた。
ここまで書けば、読者にも状況がわかります。
「あ、返すのを忘れた」
と。
「ぞっとした」は本当に必要なのか
そこで次に考えたいのが、
ぞっとした。
という一文です。
もちろん、間違いではありません。
実際、主人公はぞっとしたのでしょう。
しかし、人物が感じたことをすべて感情語にする必要があるのかという問題があります。
●数学の教科書が机から出てきた
●友人は五限に数学があると言っていた
●昼休みに返すと約束していた
そして主人公は慌ててメッセージを送る。
ごめん。貸してくれたのに忘れてて返せなかった。五限数学だって言ってたのに困ったよね。本当にごめんね。 (25頁)
ここまであれば、主人公が平然としているとは、まず読まないでしょう。
焦っている。
申し訳なく思っている。
場合によっては、血の気が引くような感覚まで想像するかもしれない。
つまり、「ぞっとした」と書かなくても、「ぞっとした」に相当する感情はすでに文章から発生しているのです。
ならば、あえて感情の名前を付けない選択肢があります。
感情を書くのではなく、感情が生まれる条件を書く
これは私が小説を読むときに大切にしていることの一つです。
たとえば、
悲しかった。
と書けば、人物の感情は明確になります。
しかし、
冷蔵庫を開けると、母が買っていた牛乳が一本だけ残っていた。
とだけ書く方法もあります。
前後の文脈によっては、こちらのほうが強く「悲しさ」を感じさせることがあります。
作者が、
「この人物は悲しい」
と説明するのではなく、
読者自身が悲しさへ到達できる材料を配置する。
この違いは大きいと思っています。
今回の「ぞっとした」も同じです。
感情語を削ること自体が目的なのではありません。
すでに前後の文章がその仕事をしているなら、さらに感情の名前まで書くことで、情報が重複していないかを見るのです。
私は「こう直してください」と言う前に考えたい
もちろん、
「引っ張り出した」を使ってはいけない。
「ぞっとした」は削らなければならない。
という話ではありません。
小説では、意図的な違和感もあります。
人物固有の言葉遣いもあります。
あえて感情を明示することで生まれるリズムもあります。
だから私が講評するときには、
「この表現は間違っている」
と即座に判断するのではなく、
「この言葉を置くことで、読者にはどのような読みが生じるのか」
を考えます。
「引っ張り出す」なら、〈意図的に対象を取り出す〉という読みを強める。
しかし、この場面では〈偶然の発見〉が重要である。
ならば、もう少し中立的な動詞のほうが、作者の狙いに合うかもしれない。
「ぞっとした」なら、感情を明確にする効果がある。
一方で、その感情はすでに状況と後続する言動から十分読み取れる。
ならば、削ることで読者に委ねる余地が生まれるかもしれない。
そうやって考えていきます。
読者に「説明する文章」から、読者が「経験する文章」へ
私は、小説講評で作品を自分好みに書き換えたいとは思っていません。
見たいのはもっと細かなところです。
その動詞は、どれくらいの意図性を含んでいるのか。
その感情語は、すでに前後から読み取れるものを重ねていないか。
作者が意図した読者体験と、実際の文章から生じる読者体験は一致しているか。
一語変えるだけで、人物の能動性が変わることがあります。
一文削るだけで、読者自身が感情を発見する余白が生まれることもあります。
だから私は、
「何を書いたか」だけでなく、「その言葉によって読者に何が起こるか」を読む。
そんな講評をしていきたいと思っています。