「詩的だから」で済ませていい?――小説の雰囲気と必然性を考える

「詩的だから」で済ませていい?――小説の雰囲気と必然性を考える

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小説(又吉直樹『劇場』)を読んでいると、美しい文章や印象的な比喩に出会うことがあります。

一読すると、なんとなく格好いい。

作者が表現しようとしている感覚も分かる。

けれど、立ち止まって考えてみると、

「なぜ、ここでこう感じるのだろう?」

「この表現は、実際の場面として成立しているのだろうか?」

という疑問が出てくることがあります。

今回は、小説における「雰囲気」と「必然性」について考えてみます。

「歩道橋を越えた」は間違いなのか


たとえば、

歩道橋を越えた。(7頁)

という文章。

一般的には、

歩道橋を渡った。

のほうが自然でしょう。

歩道橋は道路を横断するためのものなので、通常は「渡る」と表現します。

しかし、小説では必ずしも「越えた」が間違いとは限りません。

たとえば主人公が、自分の身体から意識が少し離れているような感覚を抱えている。

自分が目的を持って歩いているというより、肉体が勝手に空間を移動し、それを意識が後ろから眺めている。

そんな場面なら、

「歩道橋を渡る」

よりも、

「歩道橋を越える」

のほうが、歩道橋を一つの地形や障害物のように扱っている感じが出ます。

通常から少しずれた動詞が、通常から少しずれた主人公の認識と重なる。

文章の「違和感」は、必ずしも欠点ではありません。

その違和感を作品が必要としているか。

そこまで考える必要があります。

「笑われた」は事実なのか、主人公の解釈なのか

別の場面(8‐9頁)を考えてみます。

主人公が古着屋に入る。

店員が笑っている。

主人公は、自分で切った不格好な前髪を見て笑われたのだと思う。

ここで重要なのは、

店員が笑ったこと

と、

店員が自分の前髪を笑ったこと

は同じではない、ということです。

前者は主人公が観察した外界の出来事です。

後者には主人公による解釈が入っています。

実際には店員同士の会話で笑っていたのかもしれない。

主人公とは無関係だったのかもしれない。

それでも主人公には、「自分が笑われた」と感じられる。

むしろ、自分と外界との関係が不安定になっている人物なら、このズレは面白い。

ところが作者自身が、

店員は主人公の前髪がおかしいから嘲笑した

という客観的事実として描いているのであれば、少し事情が変わります。

接客中の店員が客の容姿を露骨に笑うことは絶対にないとは言えません。

しかし、一般的な接客態度からは外れています。

ならば、店員の性格や店の雰囲気など、その行動を支えるものが少し欲しくなります。

ここでも重要なのは、

人物がそう感じたことと、作品世界で本当にそうだったことを区別すること

だと思います。

「理由もなく泣きたい」を成立させるもの

さらに主人公が、

僕は叫びたくなった。そして、理由もわからずに泣きたくなった。あるいは、ずっと前から感情を爆発させる合図を待っていたのかもしれない。(11頁)

と感じたとします。

文章には勢いがあります。

「叫びたい」「泣きたい」「爆発させたい」と、感情の強度が一気に上がっていきます。

しかし、ここで私は、

なぜ?

と考えます。

もちろん、主人公自身には理由が分からなくてもいい。

人間はいつも自分の感情の原因を理解しているわけではありません。

けれど、

登場人物に理由が分からないことと、読者にも感情の発生する土壌が示されていないことは別です。

ここは小説を書くうえで重要だと思います。

それまでに、

「泣きたいのに泣けなかった」

「感情をうまく感じられなかった」

「ずっと何かを抑えていた」

という蓄積があれば、主人公本人には分からなくても、読者には、

ここまで溜まっていたものが、今あふれたのだ

と感じられます。

ところが、そうした助走がないまま、

離人感 → 誰かとの出会い → 突然の感情爆発

と進むと、感情の強さだけが先行してしまいます。

「ずっと前から感情を爆発させる合図を待っていた」という文章は、とても大きな意味を持ちます。

「ずっと前から」と書く以上、それまでの主人公の人生や心理状態まで遡って意味づけするからです。

だからこそ、その言葉を支えるものが欲しくなります。

感情には理由がなくても、「必然性」は必要なのか

ここで私は、「感情には必ず理由を書かなければならない」と言いたいわけではありません。

むしろ説明しすぎれば、小説はつまらなくなることがあります。

重要なのは、

理由の説明ではなく、感情の必然性です。

人物は、

なぜか泣きたくなった。

としか思っていない。

しかし読者は、それまでの文章を読んできたから、なんとなく分かる。

この状態は成立します。

逆に、作者が長々と理由を説明していても、それまでの人物像からその感情が出てくるように感じられなければ、読者は納得できません。

「説明されている」ことと「腑に落ちる」ことは違う。

小説では、この差が大きいように思います。

「呼吸の名残」という美しい言葉

もう一つ、こんな文章を考えてみます。

窓ガラスには、その人の呼吸の名残があった。(12頁)

私はこの表現自体は詩的だと思います。

単に、

窓ガラスが曇っていた。

とするのではなく、「呼吸の名残」と表現することで、そこに少し前まで人が存在していたことまで感じさせます。

人が去ったあとに残された痕跡。

余韻のある表現です。

しかし、具体的な場面を考えると疑問も出てきます。

これが「呼気によって窓ガラスが曇っている」という意味なら、ガラス表面で水蒸気が凝結する条件が必要になります。

冬の冷たい窓なら想像しやすい。

夏でも条件によっては起こりますが、普通の夏の日に、人が窓辺にいただけで、その人が去ったあとにも分かるほど呼気の痕跡が残っている。

そうなると、少し想像しにくくなります。

ここには、

言葉としては美しい

という評価と、

具体的な現象として成立しているのか

という評価の二つがあります。

どちらか一方だけで文章を判断する必要はありません。

「ニュアンスが具体を追い越す」瞬間

ここまでの例には、共通するところがあります。

作者が表現したい感覚は分かるのです。

離人感。

他者への過敏な意識。

突然あふれ出す感情。

人が去ったあとの余韻。

どれも小説として魅力的な題材です。

ところが、ときどき作者が到達したい感覚に、文章が急ぎすぎる。

すると、

具体的な出来事
↓
???
↓
印象的な感情・比喩

という空白ができます。

私はこれを、

「ニュアンスが具体を追い越している」

状態として考えています。

美しい文章ほど、一度立ち止まってみる

詩的な文章を書くことが悪いわけではありません。

曖昧さも、矛盾も、現実から少しずれた表現も、小説では武器になります。

ただ、

「文学だから曖昧でいい」

と、

「必要な一段階を書かずに雰囲気でつないでいる」

ことは同じではありません。

推敲するとき、私は印象的な一文ほど、一度その雰囲気を取り払って考えてみる価値があると思います。

「この人物は、なぜここでこう感じたのか」

「本人には分からなくても、読者が感じ取れる材料はあるか」

「この比喩を具体的な光景に戻したとき、場面として成立しているか」

「この違和感は意図されたものなのか、それとも接続が一つ抜けただけなのか」

そう問い直して、それでも残したい文章なら、その違和感には意味があるのかもしれません。

小説の文章は、現実をそのまま再現する必要はない。

けれど、現実から離れるなら、離れるための足場は必要なのだと思います。



小説の文章を第三者の目で読みます

「意味は分かるけれど、なぜか引っかかる」

「この比喩は成立しているのだろうか」

「心理描写にちゃんと必然性があるのか」

「意図的な曖昧さと、説明不足の境界が自分では分からない」

小説を書いていると、自分では判断しにくい箇所が出てきます。

ココナラでは、作品を実際に読みながら、文章表現・比喩・心理描写・視点・文体・読者への伝わり方について具体的に感想・講評をお伝えしています。

作品を一つの「正解」に直すのではなく、作者が何を書こうとしているのかを踏まえたうえで、その表現が読者にどう届くのかを一緒に考えます。

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