芥川賞作品を一文ずつ読むと見えてきた、「局所的な粗さ」と小説全体の完成度

芥川賞作品を一文ずつ読むと見えてきた、「局所的な粗さ」と小説全体の完成度

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学び
芥川賞を受賞した作品というと、つい「一文一文まで完璧に磨き上げられている」と考えてしまう。

しかし、実際に文章を細かく読んでいくと、必ずしもそうではない。

今回、ある芥川賞作品(『サンショウウオの四十九日』)の胃カメラの場面を精読していて、いくつか引っかかる表現があった。

そして、その引っかかりを一つずつ考えていくうちに、むしろ別のことが見えてきた。

文学作品の評価は、局所的な文章の完成度を単純に足し合わせたものではないのではないか。

そんなことを考えた。

では、局所的な読みをしてみよう。

「突き出たもの」と「へこんだもの」は対称なのか


作中には、空気によって膨らませた胃を観察する場面がある。

そこで、

「突き出たものはないし、へこんだものもない」(9頁)

という趣旨の表現が出てくる。

一見すると非常に整っている。

「突き出た」と「へこんだ」が対になり、それぞれに「もの」が付いている。

しかし、よく考えると少し奇妙だ。

「突き出たもの」は分かる。

たとえば腫瘍やポリープなど、胃壁から何らかの実体が突出しているのであれば、それを「もの」と呼ぶことはできる。

ところが「へこんだもの」とは何だろう。

缶そのものが変形しているなら「へこんだ缶」と言える。しかし胃壁の一部が陥凹している場合、存在しているのは「へこんだもの」というより、へこんだ箇所である。

つまり、

突き出たもの


へこんだもの

は、文法上はきれいに対称になっているのに、意味上は必ずしも対称ではない。

「隆起した箇所も、へこんだ箇所もない」などとすれば、意味としてはずっと明瞭になる。

文章の形の美しさが、意味の構造まで保証するわけではない。

さっき「何もない」と言ったのに、今度は出っ張っている


さらに読み進めると、胃に先ほどより多くの空気を入れたあと、

胃の右側の壁だけがでっぱっている。

という所見が現れる。

ここでも少し立ち止まった。

先ほどは「突き出たものはない」と観察していた。それなのに、今度は胃壁が出っ張っている。

もちろん医学的には両立しうる。

最初に確認したのが粘膜そのものに生じた隆起や陥凹であり、後から発見したのが胃の外側にある何かによる圧迫なら、別の現象だからだ。

つまり、

胃壁そのものの病変はない
さらに胃を膨らませる
外部から胃壁が押されていることに気づく

という流れなら成立する。

ただ、文章だけを読むと、この区別が十分に示されていない。

そのため読者には、

「さっき突き出ていないと言ったのでは?」

という疑問が生じる可能性がある。

問題なのは医学的に絶対あり得ないことではなく、観察の段階が文章によって十分に区別されているかなのである。

「クイズ番組のようだった」は何を省略しているのか


その出っ張った胃壁について、「胃の外にある何かをかたどっていて、

まるでクイズ番組のようだった」(10頁)

という比喩が使われる。

言いたいことは分かる。

直接その物体を見ることはできない。

しかし胃壁に輪郭だけが浮かび上がっている。

その輪郭から、

「これは何だろう?」

と正体を推測する。

おそらく作者が思い浮かべているのは、シルエットを見て正体を当てるクイズなのだろう。

ところが「クイズ番組」とだけ書いてしまうと、その中間過程がかなり省略されている。

クイズ番組には早押しもあれば、漢字問題もある。何が胃壁の光景と似ているのかは「クイズ番組」という語そのものには含まれていない。

比喩では、

AとBのどの性質が似ているのか

が読者に伝わる必要がある。

この場合なら、

「姿そのものは見えず、輪郭だけを手掛かりに正体を当てる」

という共通構造がある。

比喩の発想自体は分かる。しかし、それを成立させる言葉を少し節約しすぎているように感じた。

異常を見つけた直後に、医師が郷里を語り始める


さらに気になったのが、場面全体の緊張の扱いだった。

医師は赤ん坊の胃を検査している。

そして、

胃が何かに押されている。

という異常な所見に気づく。

読者としては当然、

「何が胃を押しているのだろう?」

と考える。

ここには小さなサスペンスが生まれている。

ところが、その途中で老医が郷里について語り始める。それも一言二言ではなく、ある程度まとまった長さである。

とうとう赤ん坊の母親から、

「郷里がお懐かしいですか」(11頁)

という趣旨の言葉が向けられる。

現実の医師が検査中に雑談すること自体がおかしいとは思わない。

しかし、

乳児を検査している
→ 原因不明の圧迫を発見する
→ その正体を探っている

という場面の途中で長い郷里語りが始まると、作品の緊張がいったん切れてしまう。

「胃を押しているものは何か」という問いから、「老医の郷愁」へ読者の注意が移動してしまうからだ。

これが後の展開に重要な意味を持つなら、一種の焦らしとして成立するだろう。

そうでなければ、せっかく立ち上げた緊張を作者自身が弛緩させているようにも見える。

嫌味を「声を漏らした」と表現できるか


もう一つ面白かったのが、

「郷里がお懐かしいですか」
と不満げに声を漏らした。(11頁)

という表現だった。

ここで母親は、本当に医師の故郷について知りたいわけではないだろう。

検査中に郷里の話を続ける医師に、

「いま、その話をしている場合ですか」

という不満を婉曲に伝えている。

つまり、一種の嫌味、あるいは牽制として読むことができる。

そう考えると「声を漏らした」という動詞には違和感がある。

「声を漏らす」には、

「痛みに声を漏らす」

「思わず驚きの声を漏らす」

など、内側にあるものが意図せず外へこぼれるような感触がある。

しかし、この台詞は老医という明確な相手へ向けた働きかけである。

思わず漏れた声と、相手に向けた嫌味では、言葉の方向性が違う。

むしろ、

「郷里がお懐かしいですか」と母親は言った。

だけでも成立するのではないか。

直前の状況が十分に描かれていれば、丁寧な疑問文であること自体がかえって嫌味として効いてくる。

芥川賞作品でも、一文一文が完璧なわけではない


こうして一文ずつ見ていくと、この作品には意外なほどラフなところがある。

ただし、ここで重要なのは、

だから作品の価値が低い

という話ではない。

むしろ逆だった。

芥川賞を受賞するような作品であっても、局所的に見れば、

「この言葉は本当に適切だろうか」

「この比喩は少し飛躍していないか」

「この場面で、この長さの会話を入れる必要があるだろうか」

と思う箇所は存在する。

それでも作品全体として評価される。

ここから、

局所的な文章の完成度の総和が、そのまま小説全体の完成度になるわけではない。

ということが見えてくる。

選考者が見ているのは、一つ一つの助詞や動詞だけではないのだろう。

人物、文体、構成、作品世界、テーマ、読後に残るもの。そして、その作品でなければ生まれない独特の感触。

そうしたものを含めた作品全体の力が評価される。

「粗さを全部消せば名作になる」わけではない

これは自分で小説を書くときにも重要だと思った。

文章を推敲していると、

「ここは説明的だ」

「同じ文末が続いている」

「この比喩は少し分かりにくい」

といった局所的な問題はいくらでも見つかる。

もちろん直した方がよい箇所もある。

しかし、それらを一つずつ機械的に消していけば、作品が必ず良くなるわけではない。

文章には呼吸がある。

多少ラフでも勢いのある文章もある。

説明的だからこそ成立する場面もある。

一文だけ取り出せば奇妙でも、作品全体の調子の中では機能している表現もある。

だから推敲するときには、

「この一文は完璧か」

だけではなく、

「この一文は、この小説全体の中で何をしているのか」

まで考えなければならない。

芥川賞作品を細かく読んでいて、逆説的にもそのことを教えられた。

名作とは、一つも傷のない文章の集合体ではない。

局所的な粗さを抱えながら、それを上回る何かを作品全体として立ち上げたものなのかもしれない。



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