小説を読んでいると、文法的には間違っていない。意味も分かる。それなのに、なぜか一瞬立ち止まってしまう文章に出会うことがあります。
最近、『バリ山行』を読んでいて、そうした文章がいくつか気になりました。
個々の表現を検討していくうちに、共通する問題が見えてきました。
それは、
表現を豊かにしようとして情報や技巧を加えた結果、かえって読者の頭の中で映像が立ち上がりにくくなっている
という問題です。
今回は、いくつかの例をもとに考えてみます。
1.その位置から、本当に「前歯」は見えるのか
ある場面で、語り手が人物の傍らに近づきます。
相手は語り手に気づかず、PC画面を覗き込んでいる。その口は半開きで、大きめの前歯が覗いている、と描写されます。
傍らに近づいて、そう私が声を掛けても妻鹿さんは気づかず、無精髭の散った半開きの口から、やや大きめの前歯を覗かせてPC画面を覗き込んだままだった。(013頁)
一見すると、人物の風貌を細かく捉えた描写です。
しかし、私はここで引っかかりました。
語り手は「傍ら」から近づいています。
一方、相手はPC画面を覗き込んでいる。
そうすると読者の頭に浮かぶのは、正面顔というより横顔、あるいは斜め横から見た顔ではないでしょうか。
ところが「半開きの口から大きめの前歯を覗かせている」という描写は、どこか正面から口元を観察しているような印象を与えます。
つまり問題は、「前歯を覗かせる」という表現そのものではありません。
語り手の立っている位置と、そこから見えるはずのものが噛み合っているか。
小説にはカメラがありません。
だからこそ文章によって、
「誰が」
「どこにいて」
「どちらを向いて」
「何を見ているのか」
を読者の頭の中に組み立ててもらわなければなりません。
細部を描けば描くほどリアルになるとは限らないのです。
2.「それでも」は、本当に逆接なのか
別の場面では、小柄な人物が立ち上がります。
その人物の作業ズボンは長く、裾が何重にも折られている。そして、
「それでも」
という逆接を挟んで、裾が擦れ、ほつれ、くたびれた安全靴の上に垂れかかっている様子が描かれます。
塗料に汚れた作業ズボンの裾は何重にも折られ、それでも裾の端が擦れてほつれて、くたびれた安全靴の上に垂れかかっていた(013頁)
ここにも少し引っかかりました。
「何重にも裾を折っている」
にもかかわらず、
「まだ安全靴の上まで垂れかかっている」
のであれば、「それでも」は成立します。
何重にも折って短くした。それでもまだ長い。
これは明確な逆接です。
ところが、その途中に「擦れている」「ほつれている」という情報が入ってくる。
「何重にも折っている」ことと「擦れてほつれている」ことの間には、それほど強い逆接関係がありません。
そのため読者は「それでも」を読んだ瞬間には、何が何に逆らっているのか分からず、文末まで読んでから、
「ああ、何重にも折ったのに、まだ靴まで届いているということか」
と遡って理解することになります。
逆接がおかしいというより、逆接の着地点が遠いのです。
接続詞は、文章と文章を接続する小さな部品に見えます。
しかし「それでも」と書いた瞬間、読者は「前の内容から予想されることに反する何かが来る」と身構えます。
その期待をどこで回収するか。
これも可読性に関わる問題です。
3.「青い煙」は、本当に必要なのか
さらに、
「青い煙を長く吐き出しながら」(018頁)
という描写がありました。
最初に読んだとき、私は「青い」という形容に引っかかりました。
単に「煙を長く吐き出しながら」であれば、映像はすぐ浮かびます。
しかし「青い煙」と書かれると、
なぜ青いのだろう。
照明のせいなのか。
比喩なのか。
青という色に何か意味があるのか。
読者は一瞬、余分な処理を要求されます。
もちろん、珍しい表現を使うこと自体が悪いわけではありません。
問題は、
予測を裏切った結果、読者の中に何が増えたのか
です。
新奇な表現によって映像や人物像が豊かになるのであれば、その引っかかりには意味があります。
ところが新奇性だけが増え、像の鮮明さが増していないのであれば、独自性と引き換えに可読性を落としている可能性があります。
4.後の文章を読んで、評価を更新する
ただし、この「青い煙」については、その後を読んで評価が少し変わりました。
後に、その人物が靴の裏で煙草をもみ消す描写が出てきたのです。
そこで初めて、先ほどの「青い煙」が煙草の煙だったことがはっきりします。
これは小説を講評するときに重要なことだと思います。
一文だけを取り出して、すぐ良し悪しを確定してはいけない。
後続する文章によって、先ほどの描写の意味が変わることがあるからです。
ただ、ここでは新しい疑問も生まれました。
作者は単に「煙草を吸っていた」とは書かず、「青い煙」と色彩を与え、さらに靴の裏でもみ消す動作まで描いています。
つまり煙草という小道具をかなり前景化しています。
しかも、その人物は登山部の顧問という立場です。
そこで問うべきなのは、
「山で煙草を吸うなんてけしからん」
という道徳的な批判ではありません。
小説には、好ましくない行動をする人物が当然登場します。
問いたいのは、
なぜ作者は、この行動にこれだけ描写上の焦点を当てたのか。
ということです。
人物の粗雑さを示したいのか。
豪放な人物像を作りたいのか。
後の展開への伏線なのか。
何らかの意味へ回収されるなら、煙草を強調したことには機能があります。
そうでないなら、読者には「なぜここをこんなに目立たせたのだろう」という後味だけが残る可能性があります。
5.台詞で分かることを、地の文でもう一度説明しない
次に気になったのは、
「鳴るけど出ねぇわ」
という台詞のあと、人物が「ダメだと言うように」携帯電話を振って見せる場面です。
「鳴るけど出ねぇわ」と常務はダメだと言うようにケイタイを振って見せた。(019頁)
ここでは逆に、情報が多すぎると感じました。
「鳴るけど出ねぇわ」
という台詞がある。
さらに携帯電話を振って見せる。
この二つだけで、
「電話には呼び出し音が鳴っているが、相手は出ない」
「こりゃダメだ、と人物が思っている」
ということはかなり伝わります。
そこへ、
「ダメだと言うように」
と説明を加える。
すると、
台詞 → 地の文による意味の説明 → 身振り
と、同じ意味に三重の荷重がかかります。
これは情報を追加しているようで、実は読者が自分で意味を補完する余地を狭めています。
「鳴るけど出ねぇわ」と言い、携帯電話を振る。
それだけで読者は分かる。
作者が一歩引いたほうが、かえって人物の姿が自然に見えることがあります。
6.「足踏みしながら降りる」は映像になるか
最後に、
「足踏みするように斜面を降り」る(019頁)
という表現です。
これも意味そのものは想像できます。
おそらく、小刻みに足を動かしながら斜面を降りているのでしょう。
しかし「足踏み」という言葉には、
足は動いているが、身体そのものはほとんど前進していない
という基本的なイメージがあります。
一方、「斜面を降りる」は明確な位置移動です。
そのため、
「停滞する運動のように移動する」
という二つの像を読者が頭の中で調整しなければなりません。
もちろん、実際に急斜面を小刻みに足を動かしながら降りることはあります。
だから物理的に不可能な描写ではありません。
問題は、「足踏み」の何を比喩として採用したのかが、一読しただけでは分かりにくいことです。
小刻みな足運びなのか。
慎重さなのか。
足場の悪さなのか。
焦りなのか。
それなら、その特徴を直接描いたほうが映像は立ち上がりやすいかもしれません。
「独特な表現」と「よく見える表現」は違う
ここまでの例には、一つの共通点があります。
文章に何かを加えることで、表現を豊かにしようとしていることです。
「前歯」という細部を加える。
「それでも」という論理を加える。
「青い」という色彩を加える。
「ダメだと言うように」という解釈を加える。
「足踏みするように」という比喩を加える。
どれも、それ自体が悪いわけではありません。
しかし文章は、情報を加えれば加えるほど豊かになるわけでもありません。
私は小説を読むとき、
その表現によって、読者の頭の中の像は一段鮮明になっただろうか。
と考えることがあります。
鮮明になったのであれば、その技巧には意味があります。
逆に、作者が一工夫したことは分かるけれど、その一工夫を理解するために読者が立ち止まらなければならないのであれば、技巧そのものが文章の抵抗になっているかもしれません。
だから私は、「変わった表現だから削るべきだ」とは考えません。
むしろ、
なぜ、ここでは普通の言葉では足りないのか。
と考えます。
普通の言葉では捉えられない感覚を捉えるためなら、新奇な表現は大きな力を持ちます。
しかし、普通の言葉で十分に見えるものを、わざわざ複雑な表現に置き換えているだけなら、それは「うまい文章」に見せるための技巧になってしまう危険があります。
小説の文章で大切なのは、表現が目立つことではなく、その表現を通して人物や世界が見えることなのではないでしょうか。
私は講評するとき、「この表現はおかしい」と結論だけを置くのではなく、
「なぜ私はここで一瞬止まったのだろう」
と考えるようにしています。
視点の位置がおかしいのか。
接続関係が弱いのか。
意味を説明しすぎているのか。
比喩の二つの像が衝突しているのか。
新奇性に対して得られるものが少ないのか。
その「引っかかった一瞬」を分解していく。
そこに、文章を読む面白さがあるように思います。