小説には、さまざまな読み方がある。
同じ主人公を読んでも、「弱い人間だ」と感じる人もいれば、「むしろ強い人間だ」と感じる人もいる。
ある行動を「身勝手だ」と読む人もいれば、その裏側にある切実さを読み取る人もいる。
小説とは本来、そのように複数の解釈を呼び込むものだと思う。
だから、「この読みだけが唯一正しい」と原理的に決めることは難しい。
しかし、商業出版を考えたとき、話はそれだけでは終わらない。
「自由に読める」と「どう読まれてもよい」は違う
商業出版では、本を読者に手に取ってもらわなければならない。
純文学は必ずしもエンターテインメントのような爽快さや興奮を目指すものではない。
しかし純文学であっても、「読んで面白かった」「何かが残った」「もう一度読みたい」と思わせる力は必要だろう。
出版社も、一人の作者だけを見ているわけではない。
数多くの作品を刊行し、その作品がどのように読者に受け入れられたのかを見ている。編集者であれば、多数の原稿にも接している。
もちろん、出版社の人だから「何が売れるか」を完全に予測できるわけではない。
編集者同士で評価が分かれることもあるだろう。
それでも一般の読者とは異なる種類の経験を蓄積していることは確かだと思う。
「人物造形が幼稚だ」と言われたら
以前、ココナラで小説の講評サービスを見ていたとき、気になる低評価を見つけた。
購入者は、自分の作品について「人物造形が幼稚である」といった趣旨の指摘を受け、それに納得できなかったようだった。
作者からすれば、腹が立つのも分かる。
「この人物には、こういう過去がある」
「この行動には、こういう心理が隠されている」
「そこまで読めば幼稚ではないことが分かるはずだ」
そう言いたくなるかもしれない。
しかし、私はここに、小説の講評を受けるときの非常に重要な問題が隠れていると思った。
「人物造形が幼稚である」という評価が絶対的な真理である必要はない。
しかし、
「この原稿を読んだ第三者に、『人物造形が幼稚だ』という読みが実際に発生した」
という事実は残る。
この二つは別の問題なのである。
結論を論破するのではなく、結論までの経路を見る
ここで作者がやるべきことは、
「その読みは間違っています」
と論破することではないのではないか。
むしろ、
なぜ、この人にはそう読めたのだろう。
と考える。
人物の発言が単純すぎたのか。
心理を説明しすぎたのか。
行動の動機を支える描写が不足していたのか。
人物の矛盾や葛藤が十分に提示されていなかったのか。
あるいは、本当は十分書けていて、その講評者とは単純に読みが合わなかっただけなのかもしれない。
重要なのは、「幼稚」という言葉そのものを受け入れることではない。
その言葉が生まれるまでの読解過程を調べることだ。
私はここに、講評を受ける意味があると思っている。
江戸川乱歩賞の選評を読んでいても思う
文学賞の選評を読んでいると、ときに作者にとってかなり厳しい言葉が並ぶ。
人物に魅力がない。
設定に無理がある。
展開が安易である。
動機に説得力がない。
作者からすれば、それぞれについて反論があるかもしれない。
しかし新人賞に作品を出すということは、自分の意図を知らない人間に原稿だけを渡すということでもある。
作者は選考委員の横に座って、
「ここは実はこういう意味なんです」
とは説明できない。
原稿だけが作者の代理人になる。
そう考えると、選評や講評に対して作者が検討すべきなのは、評価者の結論そのものだけではない。
「なぜ私の文章から、その読みが発生したのか」
という経路なのだと思う。
作品を大切にすることと、自分の読みを守ることは違う
これは簡単ではない。
何か月、ときには何年もかけて書いた作品なら、その人物について作者は誰よりも多くのことを知っている。
だから、
「この人物はそんな人間ではない」
と言いたくなる。
しかし、そこで少し怖いことが起こる。
作者の頭の中には存在しているけれど、原稿には存在していない情報によって、作者自身が作品を補完してしまうのである。
作者には深い人物に見える。
しかし初めて読む人には平板に見える。
そのとき必要なのは、どちらが「正しいか」を争うことではない。
なぜその落差が生じたのかを調べることだ。
もちろん、一人の講評者にそう言われたからといって、すぐ原稿を書き換える必要もない。
二人、三人と読んでもらい、同じ場所で同じ種類の違和感が繰り返し指摘されるなら、そこには原稿側の問題が存在する可能性が高くなってくる。
反対に、評価が大きく割れるなら、それ自体が作品の性質を知る手がかりになる。
講評とは判決ではない。
原稿が他人の頭の中でどのように作動したのかを観察するためのデータなのだ。
そう考えると、厳しい講評との付き合い方も少し変わってくる。
自分の作品を大切にすることと、自分自身の読み方を絶対視することは同じではない。
その二つを切り離すことには、大きな痛みが伴う。
しかし、小説を自分の手元から離し、他者に読んでもらうということは、おそらくそこから始まるのだと思う。