「からだが治るのがこわいんだ」――重要な台詞ほど、重要だと予告しない

「からだが治るのがこわいんだ」――重要な台詞ほど、重要だと予告しない

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学び

『1R1分34秒』を読んだ。

20ページに、次のような発言がある。

「そう? ウン……くやしさはもうちょいあとにくる。からだの痛みや、筋肉痛がなくなるのがこわいよ。あっ、これはいままでいったことがなかったかな。そう。からだが治るのがこわいんだ。つかれは……。つかれもかな。でもなあ。もうきててもいいところだ、くやしさ、こないのかな……。それはそれで、どうなんだろう?」

まず目につくのは表記である。

「怖い」「悔しい」「疲れ」と漢字で書くことのできる言葉が、「こわい」「くやしさ」「つかれ」とひらがなで書かれている。

漢字に比べれば、一瞬で意味を把握するという点では可読性が落ちるかもしれない。しかし、この表記には別の効果があるように思う。

「恐怖」「悔恨」といった概念として整理される以前の、もっと原初的な感情。それを身体から直接こぼれ落ちてきた言葉として読ませる働きである。

なかでも、

「からだが治るのがこわいんだ」

という一言は見過ごせない。

普通なら、身体の痛みはなくなってほしい。負傷した身体なら治ってほしい。

ところが、この人物は「治るのがこわい」と言う。

ここには「治癒=望ましいもの」という常識的な方向を反転させるものがある。

身体の痛みが消えることは、試合の記憶が身体から消えていくことでもあるのかもしれない。

少なくとも、作品を読むうえで立ち止まりたくなる発言である。

ところが私は、初読では意外なほどここを素通りしてしまった。

なぜ、これほど強い意味を持つ台詞が、強い台詞として聞こえなかったのだろう。

一つの原因として考えられるのが、その直前にある、

「あっ、これはいままでいったことがなかったかな。」

という一言である。

この構造を見ていて、私はトーク番組を思い出した。

経験の浅い話者が、

「これ、すごく面白い話なんですけど」

と前置きしてからエピソードを語ることがある。

しかし、「面白い」と先に宣言されれば、聞き手は自然に笑うのではなく、「どれほど面白い話なのだろう」と身構えてしまう。

話者自身がハードルを上げてしまうのである。

小説でも似たことが起こる。

「これはいままでいったことがなかった」と予告された瞬間、読者には、

《これから重要な告白が始まる》

という標識が渡される。

そして、その標識を見せられたあとで、

「からだが治るのがこわいんだ」

と続く。

本来なら、この逆説的な一言そのものに出会って、

「えっ、治るのが怖い?」

と読者自身が立ち止まれたはずである。

ところが先に「重要ですよ」と教えられたため、その発見の一部を文章側に先取りされてしまう。

もちろん、予告そのものが悪いわけではない。

「不安があった」と先に書き、そのあとで「では、何が不安なのだろう」と読者を後続する内面へ導くこともできる。

重要なのは、その一文が読者の発見を準備しているのか、それとも読者の発見そのものを先取りしてしまっているのか、という違いなのだと思う。

さらに、この場面にはもう一つ気になるところがある。

「からだが治るのがこわいんだ」という発言のあと、聞き手は、

「相手はどうだった?」

と次の話題へ進んでしまう。

会話としては成立している。しかし、作品の主題にかかわるほどこの台詞を重く扱いたいのであれば、読者がそこに滞在する時間がほしい。

そこで必要なのは、台詞そのものをさらに技巧的にすることではないだろう。

むしろ逆である。

重要な台詞を重くするためには、その台詞ではなく、前後を操作する。

一瞬の沈黙を置く。

聞き手の身体的な反応を置く。

話者が自分の発言に戸惑う様子を置く。

あるいは、単純に前後の情報量を減らす。

そうすれば「からだが治るのがこわいんだ」という、もともと十分に強い言葉が、自分自身の重さで読者の中に沈んでいく。

小説を推敲していると、重要な一文ほど強調したくなる。

しかし、

「重要なことを書いたから、重要そうに飾る」

ことと、

「重要な言葉が、読者の中で自然に重要になるよう場を作る」

ことは違う。

強い台詞を書くことだけが技巧ではない。

その台詞の周囲から何を退かせ、どれだけの沈黙を与えるか。

そこにもまた、小説の技術があるのだと思う。

次に紹介したいのは——。

…(前略)…自問自答を含めて「おまえはあたまで考えすぎなんだよ」とあと何万回いわれるだろう? でも空が青い

この一文、うまいなと思った。

前半に並んでいるのは、「自問自答」「あたま」「考える」といった、内面に向かう言葉だ。

しかも「あと何万回いわれるだろう?」と続く。これから先も同じことを考え、同じことを言われ続けるのだろうという、閉塞感さえある。

そこで突然、

「でも空が青い」

と来る。

「でも」は逆接である。

つまり、ここでそれまでの流れに別方向の力が加わる。

頭のなかでは延々と考えている。自問自答している。

でも、空が青い。

視線が「頭の内部」から、一気に「外の世界」へ移る。

しかも作者は、「だから気持ちが晴れた」「救われた」とは書いていない。

ただ「空が青い」とだけ書く。

だからこそ、そこに開放感や清々しさを感じることもできるし、「自分がどれだけ考え込んでいても、世界は世界として存在している」と読むこともできる。

構造として見るなら、

自問自答・あたま・考える=内面/観念/閉鎖

に対して、

空・青い=外界/感覚/開放

が置かれている。

ここでの「でも」は、単なる逆接ではない。

文章の視線を、内側から外側へ反転させる蝶番になっている。

重たい内面をさらに言葉で説明するのではなく、最後に「空が青い」という単純な感覚的事実を置く。

説明しないからこそ伝わるものがある。

小説を書くうえでも参考になる一文だと思った。


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