小説を読んでいると、文法的には間違っていないし、意味も分かる。それなのに、なぜか引っかかる文章に出会うことがあります。
最近、小説『サンショウウオの四十九日』を読みながら考えているのは、一つひとつの言葉が喚起するイメージ同士が、本当にうまくつながっているのかということです。
「痛い」と「染みる」は同じ速度なのか
たとえば、
「痛いほどの寒さが足裏に染みてくる」(4頁)
意味は分かります。
しかし、「痛い」という言葉からは、鋭く、即時的な身体感覚が立ち上がります。
一方、「染みてくる」には、外側から内側へじわじわと浸透してくるような、比較的ゆっくりとした運動があります。
つまり、
「痛い」の鋭さ・即時性 × 「染みてくる」の緩慢な浸透
という、異なる速度のイメージが一文の中で接続されています。
もちろん、寒さが徐々に足裏へ伝わり、やがて痛みに変わることは現実にあります。
問題は、それを一つの瞬間として提示したとき、言葉同士の速度にわずかな摩擦が生じないか、ということです。
「呼吸を整える」から「匂いを感じる」へ
こんな文章もあります。
「荒れた呼吸を整えていると、実家の匂いが感じられる」(4頁)
まず「荒れた呼吸」は意味こそ通じますが、「荒い呼吸」「乱れた呼吸」などと比べると、やや慣用度の低い組み合わせです。
さらに気になるのは、「呼吸を整える」と「匂いを感じる」の関係です。
「呼吸を整える」は通常、興奮や緊張を鎮めるような心理的・身体的な自己調整として理解されます。
ところが、その直後には「実家の匂い」という嗅覚的な知覚が現れます。
呼吸という身体行為が、
心身を落ち着かせる行為 → 匂いを知覚する行為
へと役割を変えているのです。
「呼吸が落ち着いたことで周囲を感じる余裕が生まれ、実家の匂いに気づいた」ということであれば自然です。
しかし、その橋渡しを「と」だけに任せると、二つの作用がやや離れて感じられることがあります。
日常の動作に対して、動詞が強すぎないか
次は、
「リビングの隅の4.5畳の畳敷きに着地して、その勢いでこたつに足を突っ込んだ」(4頁)
ここでは、
着地する → (勢い) → 突っ込む
という、かなり強い運動の連鎖があります。
「着地」には空中から地面へ到達する運動があり、「その勢いで」は運動の継続を示し、「突っ込む」にも速度と方向があります。
ところが、描かれているのが単に「畳へ上がって、こたつに入る」という日常的な所作なら、出来事そのものの運動強度に対して、選ばれた動詞の運動強度が高いようにも感じられます。
もちろん、人物の慌ただしさや子供っぽさ、コミカルな動きを表現するためなら有効でしょう。
大切なのは、強い動詞を使っていることそのものではなく、その動詞の強度を場面が要求しているかです。
一般的なものが、なぜ「実家」を感じさせるのか
「流しっぱなしのテレビだけが『実家に帰ってきた』という感じにさせる」(4頁)
これも意味は分かります。
ただ、「流しっぱなしのテレビ」は多くの家庭で見られる光景です。
それに対して「実家に帰ってきた」という感慨は、非常に個人的なものです。
そのため、
一般的な生活風景 → 個人的な強い感慨
を結ぶものが必要になります。
たとえば、母親は昔から誰も見ていなくてもテレビをつけていた。その音を聞きながら子供時代を過ごした。
そうした先行描写があれば、「つけっぱなしのテレビ」は単なる家電ではなく、この家固有の記憶を背負ったものになります。
小説では、「懐かしい」と書けば対象まで自動的に懐かしくなるわけではありません。
一般的なものを、その人物にしかないものへ変える細部が必要なのだと思います。
「寒さに押し黙っていた」の小さな摩擦
「寒さに押し黙っていた妹の旬が口を開いた」(4頁)
ここも間違いとは言えません。
ただ、
寒さで押し黙っていた
とすれば、「寒かったため黙っていた」という原因・結果の関係が素直に成立します。
一方、「寒さに押し黙る」では、寒さそのものが人物を圧迫し、沈黙させるようなイメージが生まれます。
さらに「押し黙る」は、叱責されたり、何かを指摘されたりして言葉を失う場面と比較的結びつきやすい言葉です。
単純に寒さのため喋らなくなったのであれば、「寒さで黙り込んでいた」のほうが抵抗は少ないでしょう。
ただし、「寒さに押し黙る」には、寒さを一種の物理的な圧力として描く力もあります。
だから、珍しい表現を排除すればよいわけではありません。
その違和感が意図されたものなのか。それとも作者が意識しないまま生じたものなのか。
そこを見る必要があります。
小説では、言葉の「意味」だけを読まない
文章を読むとき、「意味が通るか」「文法的に正しいか」だけを見ていると、こうした微細な違和感は捉えにくくなります。
言葉には意味だけではなく、
速度、方向、強度、身体感覚、時間感覚
があります。
「染みる」には速度がある。
「着地する」には運動方向がある。
「突っ込む」には強度がある。
「実家」という言葉には個人的な記憶が要求される。
だから私は、小説を読むとき、
この言葉が頭の中に立ち上げる像と、隣の言葉が立ち上げる像は、本当に同じ世界に存在しているだろうか。
と考えてみたいと思います。
文章の違和感は、必ずしも「間違い」ではありません。
むしろ、その小さな摩擦を見つけて、「なぜ私はここで引っかかったのだろう」と考えること。
そこから、文章を読む面白さが始まるのかもしれません。