『コンビニ人間』を読みながら考えた――「使える部品」と白湯、小さなものが大きな主題を照らす

『コンビニ人間』を読みながら考えた――「使える部品」と白湯、小さなものが大きな主題を照らす

記事
学び
村田沙耶香『コンビニ人間』を読み進めている。

これまで読んできて何度も感じたのは、この小説には二つの文章の顔があるということだ。

一つは、かなり親切に意味を説明してくれる文章。

もう一つは、たった一つの物や言葉を置くだけで、人物や作品の主題を浮かび上がらせる文章。

今回は後者を中心に考えてみたい。

特に気になったのが、「使える部品」「肉に飛んだ唾」「白湯」という、一見すると何でもない言葉だった。

「部品」という古くて新しい比喩


『コンビニ人間』では、「部品」という言葉が繰り返し現れる。

主人公・古倉恵子は、「普通」がよく分からない。

ところがコンビニにはマニュアルがある。

どんな声を出すのか。
どんな表情をするのか。
どのように商品を並べるのか。

そこでは「正しい振る舞い」があらかじめ決められている。

古倉にとって、コンビニの「部品」になることは、当初は決して否定的なことではない。

むしろ救いだった。

社会の中でどう振る舞えばいいのか分からなかった人間が、初めて自分の役割を与えられる。

ところが読み進めると、「部品」という言葉の意味が少しずつ変化していく。

古倉は、自分がいつまでコンビニにとって「使える」存在なのかを考える。

身体は年を取る。

いつか現在のようには働けなくなるかもしれない。

すると、

部品である=居場所がある

という安心の裏側から、

部品である=使えなくなれば交換される

という怖さが現れてくる。

「部品=疎外」だけなら古い

人間を機械の部品に喩える。

これは決して新しい発想ではない。

近代社会の労働者を「歯車」として描き、人間性が失われていくことを問題にする。文学でも思想でも繰り返されてきたテーマだ。

だから、

「現代人は社会の歯車にすぎない」

だけなら、かなり使い古された表現でもある。

しかし『コンビニ人間』には一つねじれがある。

古倉は、

歯車になりたくない人ではない。

むしろ、

歯車であることによって救われた人

なのだ。

ここが面白い。

人間性を奪われるから部品になることが苦しい、ではない。

自分というものをどう社会に接続すればいいのか分からないからこそ、「部品」という明確な役割が欲しい。

ところが、その救いを突き詰めると、

使えなくなった部品はどうなるのか。

という問題にぶつかってしまう。

疎外から逃げたい人間ではなく、疎外された状態に居場所を見つけた人間が、その居場所すら永続しないことに気づく。

古い「歯車」の比喩を使いながら、少し違った場所へ連れていく。

私はここに「古くて新しい」感覚を覚えた。

「普通」という問題も変化していく


そのため、作品の問いも少しずつ変わっているように感じる。

序盤では、

「普通とは何なのか」

が中心だった。

普通が分からない古倉が、コンビニというマニュアル化された場所で「普通らしい人間」を獲得していく。

ところが次第に、

「人間の価値は、社会にとって使えるかどうかで決まるのか」

という問題が入り込んでくる。

古倉にはコンビニが必要だ。

しかし、コンビニに古倉が絶対に必要とは限らない。

この非対称性はかなり寂しい。

白羽はコンビニの「外」にいる

白羽という人物も面白い。

古倉と白羽は、どちらも社会の「普通」からずれている。

しかし、ずれ方がまったく違う。

古倉はコンビニの規範を過剰なくらい取り込む。

白羽は逆に、その規範から距離を取る。

それがよく現れているのが、白羽が壁にある「お中元」の目標達成を呼びかけるポスターを見ながら、まったく別のことを喋り続ける場面だった。

これがうまい。

「白羽はコンビニに馴染んでいなかった」

とは書かない。

コンビニの欲望そのものともいえる売上目標のポスターを目の前に置き、その意味には参加しない白羽を描く。

身体はコンビニの中にある。
しかし意識はコンビニの外にある。

物と人物の配置だけで、それが見えてくる。

「修復される」という一語


さらに面白かったのが、古倉が白羽について「修復」という言葉を使うところだった。

「店長に注意されますよ」ではない。

「叱られますよ」でもない。

「修復されますよ?」

である。

この一語で、

コンビニ=機械
店員=部品
マニュアルから外れる=故障
店長から指導される=修復

という世界が立ち上がる。

これは「部品」「歯車」という主題を長々と説明するよりも強い。

世界観を一つの動詞へ圧縮している。

こういう表現は小説を書くうえで非常に参考になる。

一方で、説明しすぎるところもある

ただ、『コンビニ人間』は常にこのような書き方をするわけではない。

白羽が突然「縄文時代」や「人間は動物だ」という方向へ話を持っていった場面では、その直後に地の文で、論点がずれていることを説明する。

ここには少し引っかかった。

白羽の発言そのものを読めば、

あれ、話がずれたぞ。

と読者は分かる。

それなのに、地の文がその読み方まで指定する。

これは以前から感じていた『コンビニ人間』の特徴でもある。

出来事を提示する。
読者が意味を読み取れる。
さらに語り手が、その意味を説明する。

かなりサービス精神旺盛なのだ。

それがこの作品の読みやすさにもなっているのだろう。

しかし私は、ときどき一文手前で止めてもいいのではないかと思う。

「肉の上に飛んだ唾」が見せるもの


逆に、非常に好きだったのがバーベキューの場面である。

古倉は周囲から、なぜアルバイトなのか、身体が弱いのか、ほかの仕事をしたことはないのか、と尋ねられる。

これは古倉を「普通」の尺度で測ろうとする会話だ。

ところが、その最中に古倉は、話している男の唾がバーベキューの肉に飛ぶのを見る。

この細部が面白い。

相手が問題にしているのは、

就職、年齢、結婚、社会的立場。

ところが古倉の意識には、

口から唾が飛び、肉に落ちる。

という物質的な現象が入り込んでくる。

二人は同じ場所にいるのに、世界の重要度の付け方が違う。

「古倉は普通の人と感覚が違う」と説明する必要がない。

肉の上に唾を落とせばいい。

その具体物が仕事をしてくれる。

そして「白湯」


さらに読み進めて印象に残ったのが、古倉が白湯を飲む場面だった。

白羽は、結婚や仕事、社会からどう見られるか、自分はどう生きるべきなのか、といった大きなことを語る。

その横で、

古倉は白湯を飲んでいる。

ここには奇妙な温度差がある。

白羽が語っているのは「人生」だ。

古倉がしているのは「温かい水を飲む」ことである。

巨大な抽象語の横に、ほとんど意味のないような小さな身体動作が置かれる。

ここで以前、ある文芸評論家の言葉を思い出した。

重たいものに重たいものをぶつけるのではなく、重たいものには軽いものをぶつける。

これは文章を書くうえで、とても重要な感覚だと思う。

大きなものに、小さなものをぶつける

たとえば「死」を描くとする。

死は、それ自体がすでに重い。

そこで、

悲痛だった。
絶望した。
人生が崩壊した。

と重い言葉を重ねれば、

重い×重い

になる。

もちろん、それが必要な場合もある。

しかし、死という巨大な出来事の横に、煙草の本数のような妙に具体的で些細なものを置く方法もある。

すると、死を直接説明していないのに、かえって死の大きさが浮かび上がることがある。

『コンビニ人間』の白湯にも、似たものを感じた。

人生・結婚・社会という大きなもの。
その横に、一杯の白湯。

大きいものに大きいものをぶつけない。

小さいものを置く。

すると、両者の落差によって大きなものがかえって大きく見えてくる。

言ってみれば、

スイカに塩を振るような文章

なのかもしれない。

小さなものは「休憩」ではない

ただし、単にどうでもいい物を書けばいいわけではない。

優れた小道具は、大きな主題を斜めから照らす。

白湯なら、社会について大量の言葉を吐き出す白羽と、身体的な現在にいる古倉との差を見せる。

肉に落ちた唾なら、「普通」という社会的な意味と、古倉が知覚している物質世界との差を見せる。

お中元のポスターなら、コンビニという制度と白羽との距離を見せる。

「修復」という一語なら、コンビニの機械的な世界観そのものを見せる。

どれも長々と説明する必要がない。

「書きすぎるか、削るか」だけではない

これは自分で小説を書くときにも重要だと思った。

文章を推敲していると、

もっと心理を書いたほうがいいのか。
それとも説明を削ったほうがいいのか。

という二択になりやすい。

しかし第三の方法がある。

重い心理を直接説明する代わりに、小さな具体物を置く。

悲しみを書く代わりに、冷めた料理を書く。

孤独を書く代わりに、一人分の食器を書く。

恐怖を書く代わりに、何度も確認してしまう小さな物を書く。

大きなものを大きな言葉で説明しない。

その横に、小さな現実を置く。

読者は、その二つの距離を自分で埋める。

『コンビニ人間』には説明しすぎではないかと思う箇所もある。

しかし同時に、

「修復」
「肉の上の唾」
「お中元のポスター」
「白湯」

のように、小さなものへ非常に大きな仕事をさせる文章もある。

そこが、読みながら文章の勉強になるところだった。

大きなものには、小さなものを。

説明したくなったときほど、一杯の白湯で済ませられないか。

小説を書くとき、これは覚えておきたい文章作法だと思う。
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