『コンビニ人間』はなぜこんなにわかりやすいのか――「普通」をパッケージする文章

『コンビニ人間』はなぜこんなにわかりやすいのか――「普通」をパッケージする文章

記事
学び
村田沙耶香『コンビニ人間』を読み進めている。

前回は、この作品には「一度文章を投げ、少し後になってその意味を回収する」という文章作法があるのではないか、と書いた。

しかし、さらに読み進めていくと、それだけでは説明できない特徴が見えてきた。

むしろこの小説は、かなり執拗に意味を説明する。

普通の小説なら読者に預けてもよさそうなところまで、「これはこういう意味なのだ」と確定してくれる。

それは文学作品としては、ときに「語りすぎ」にも見える。

しかし同時に、『コンビニ人間』が「読みやすい」「わかりやすい」と感じられる理由も、まさにそこにあるのではないだろうか。

「部品」から「歯車」へ――モチーフを何度も反復する


主人公・古倉恵子にとって、コンビニ店員になることは社会との接続を意味している。

ところが作品は、その意味を一度提示して終わらない。

古倉は夢の中でもコンビニ店員として振る舞う。

この発想自体は面白い。

コンビニが単なる勤務先ではなく、夢の領域にまで入り込んでいる。古倉の身体や認知そのものがコンビニ化していることが、具体的な現象として示されるからだ。

しかし、そのあとには再び、古倉が世界の「歯車」として存在しているという趣旨の意味づけがなされる。

ここで少し食傷気味になった。

すでに作品の前方では「世界の正常な部品」という強いモチーフが提示されている。

「部品」と「歯車」はまったく同じではないにしても、かなり近い比喩領域に属している。

どちらも、

個人が巨大な機構の中に組み込まれ、決められた機能を果たす

という像を作る。

だから「正常な部品」と一度強く提示したあとで「世界の歯車」と言い換えると、新しい意味が生まれるというより、すでに伝わった意味を再確認している印象が強くなる。

ここで区別したいのは、

意味が変化する反復と、
意味を確認する反復

である。

同じモチーフを繰り返すこと自体が問題なのではない。

繰り返すたびに意味が変化するなら、それは作品を前へ進める。

しかし、すでに成立した意味を別の比喩で再度説明するだけなら、読者によっては「もう分かった」と感じる。

『コンビニ人間』には、その両方があるように思う。

「コンビニ弁当」のように意味までパッケージされている


ここで私は、『コンビニ人間』について「わかりやすい」「面白い」という評価をよく目にすることを思い出した。

そのわかりやすさは、テーマが単純だからではないのではないか。

作者が読者に対して非常にサービス精神旺盛なのだ。

描写を置く。

その描写の意味を少し後で説明する。

さらに重要なモチーフを反復し、読者の解釈をもう一度確認する。

つまり、

描写 → 解釈の余地 → 意味の確定 → モチーフによる再確認

くらいまで作者が運んでくれる。

他の純文学作品なら、

「この行為はいったい何を意味するのだろう」

と読者自身が考えなければならないところを、『コンビニ人間』ではかなりの部分まで作者が言語化してくれる。

少し皮肉な言い方をすれば、コンビニ弁当のように意味までパッケージされているのである。

しかも、これが作品内容と妙に呼応している。

コンビニにはマニュアルがある。

店員はどう振る舞えばよいのかを教えてもらえる。

商品もまた、名前、値段、賞味期限、温め方などが明示され、消費者が迷わないようにパッケージされている。

そして『コンビニ人間』という小説そのものもまた、読者が意味を取り違えないよう、かなり丁寧に意味を包装して差し出してくる。

もちろん、作者が意図的に「コンビニ商品と同じ文章を書こう」と考えたと断定することはできない。

しかし少なくとも結果として、

コンビニが人間の振る舞いを規格化することと、小説が読者の解釈をある程度まで規定すること

には、不思議な相同性が生じている。

主人公は単なる「マニュアル人間」ではない

さらに興味深い一文がある。

古倉は自分の話し方について、身近な人間のものが「伝染」しており、複数の同僚の話し方を混ぜ合わせたものが現在の自分の話し方になっている、と語る。

ここはうまい。

古倉は単純にマニュアルを暗記しているだけではない。

周囲の人間を観察し、その話し方を取り込み、さらに複数の人間の特徴を組み合わせている。

つまり、

観察 → 模倣 → 編集 → 自分の振る舞い

ということまでやっている。

しかし、ここで少し疑問も生じる。

そこまで他人の振る舞いを観察して模倣できるのなら、なぜコンビニの外では「普通の人間」になれないのだろう。

家族や友人や同年代の女性を観察し、それを模倣すればよいのではないか。

これは一見すると、「コンビニにはマニュアルがあるから普通になれる」という作品の設定を揺るがす。

ただ、もう少し考えると違いが見えてくる。

古倉に欠けているのは、模倣する能力ではない。

むしろ非常に高い。

問題は、

何を模倣すれば正解なのかを、自分では決められないこと

なのではないか。

コンビニには正解がある。

マニュアルがあり、店長がいて、先輩店員がいる。

同僚を真似る場合にも、その同僚はすでに「正常に機能しているコンビニ店員」という見本になっている。

ところがコンビニの外では事情が違う。

結婚している人もいる。
独身の人もいる。
正社員もいる。
アルバイトもいる。

誰を模倣すれば「普通の人間」になれるのかを保証してくれるマニュアルが存在しない。

そう考えると、古倉は、

「マニュアルがなければ模倣できない人」ではなく、「正解が保証されていない世界では、何を模倣すればよいのか分からない人」

なのだろう。

この違いは大きい。

「私」の話し方さえ、他人からできている


そして「二人の話し方をミックスしている」という設定には、さらに不気味なところがある。

普通なら、「私の話し方」はその人自身の一部だと思っている。

しかし古倉の場合、それさえ他人から借りてきたものの組み合わせである。

つまり彼女は、コンビニという機械を構成する「部品」であるだけではない。

「私」という部品そのものが、さらに他人の部品から組み立てられている。

ここまで来ると、「本当の古倉とは何なのか」という問題まで出てくる。

マニュアルを取り除く。

同僚から借りた口調を取り除く。

周囲から借りた服装や表情を取り除く。

そのあとに残る「私」とは何なのだろう。

これは「普通とは何か」という問題から、「自己とは何か」という問題へ自然につながっていく。

「普通」が分からない人間が、他人を教育できるのか


作中で古倉は、新人の白羽に仕事を教える側にも回る。

ここにも一見すると奇妙なところがある。

自分自身が「普通とは何か分からない」と悩んでいる人物が、他人に物事を教えられるのだろうか。

普通なら自己懐疑は、

「こんな私が人を指導していいのだろうか」

という方向にも向かいそうである。

しかし、ここでも二種類の「普通」を区別すると理解できる。

古倉には、

人間としてどう生きれば正しいのかは分からない。

しかし、

コンビニ店員としてどう振る舞えば正しいのかは、よく分かっている。

しかも後者については、長年の経験を積んだ熟練者である。

だから古倉が白羽に教えているのは、自分自身の人生哲学ではない。

「私が正しいから、あなたに教えてあげる」

でもない。

むしろ、

コンビニに存在する正解を、自分という媒体を通して白羽へ伝達している

と考えたほうが近い。

古倉の自己懐疑がコンビニ内部にだけは侵入しないことには、多少の作為性も感じる。

しかし同時に、そこが彼女にとってコンビニが特別な場所であることを際立たせてもいる。

小話が多いことと、物語が拡散することは違う


『コンビニ人間』には、本筋とは少し離れて見える小さな話もいくつか出てくる。

外国人スタッフの問題、周囲の女性たちの会話、店員同士の人間関係などである。

しかし、それらを読んでいて強く感じるのは、

エピソードが複数存在することと、作品が拡散することは同じではない

ということだ。

重要なのは、枝の数ではない。

その枝がどの幹につながっているかである。

『コンビニ人間』の場合、さまざまな小話が出てきても、

集団の中で「正常」とされる振る舞いは何か。
人間はどうやってその型を身につけるのか。
そもそも「普通」とは誰が決めるのか。

という中心的な問いへ戻ってくる。

だから話題が横へ広がっても、作品の芯そのものは見失いにくい。

これは小説を書く側にとって重要なことだと思う。

「エピソードが多いから削る」

という判断は、あまりにも機械的である。

問うべきなのは、

そのエピソードを取り除いたとき、中心人物や主題の見え方が変わるかどうか。

枝が多くても、すべてが同じ幹から伸びているなら、それは拡散ではなく主題の変奏になり得る。

「偽物」と見抜かれる瞬間


そして、文章の書き方として特に興味深かった場面がある。

同僚から、古倉はあまり自分から他人に腹を立てたり、新人を叱ったりしない人物だと指摘される。

それに対して古倉は動揺し、自分が「偽物」であることを見抜かれたように感じ、表情を取り繕う。

この構造には、太宰治『人間失格』を少し連想した。

葉蔵もまた、自分の内面を隠し、周囲に適応するための「道化」を演じる。そして、その演技を他者に見抜かれることに強い恐怖を抱く。

古倉の場合は「道化」ではなく、「普通の人間」という擬態である。

ここで興味深いのは、それまで古倉が他人を観察する側だったことである。

周囲の人間を観察する。

話し方を盗む。

振る舞いを模倣する。

ところがこの場面では、突然、

観察する者から、観察される者へ

と立場が反転する。

これはかなり怖い場面になり得る。

心理を書くか、行動を書くか

ただし、その後の文章は非常に素直である。

古倉は動揺したことを明示し、「偽物」と見抜かれたように感じたことまで読者に説明する。

とてもわかりやすい。

しかし、ここも別の書き方ができたのではないかと思った。

たとえば同僚から指摘された直後、

私はバックルームの机に置いてあったペットボトルを取り、一口水を飲んだ。

とだけ書いたらどうだろう。

もちろん、これは仮の例である。

しかしこう書けば、

「なぜ今、水を飲んだのか」

を読者が考えることになる。

緊張したのか。

表情を隠したかったのか。

返答するまでの時間を作ったのか。

心理を直接説明せず、身体の動きへ変換するのである。

原文なら、

発言 → 動揺 → 偽物だと見抜かれた恐怖 → 表情を取り繕う

と因果関係が確定している。

行動描写だけなら、

発言 → 水を飲む

で止まる。

その間を読者が埋める。

こちらのほうが文学的な余白は大きくなるだろう。

しかし、だから原文より優れているとは簡単には言えない。

『コンビニ人間』は、古倉を外から眺めて「この人は何を考えているのだろう」と推測させる小説ではない。

むしろ、古倉には世界がどのように見えているのかを、読者にはっきり共有させる小説なのだ。

だから作者は「偽物だと見抜かれた」というところまで書く。

ここにもまた、この小説のサービス精神が現れている。

『コンビニ人間』の「語りすぎ」は、本当に欠点なのか

ここまで読むと、『コンビニ人間』について私が感じていた「少し語りすぎではないか」という違和感の正体が、だんだん見えてきた。

この小説は確かに説明する。

重要なモチーフを反復する。

ときには「そこはもう分かった」と感じるほど意味を確定する。

しかし、それは同時にこの作品の圧倒的な読みやすさを作っている。

そしてもっと面白いのは、主人公自身もまた、曖昧な世界をそのまま生きることが苦手な人物だということだ。

彼女は他人を観察する。

規則を見つける。

正解を探す。

模倣する。

世界を理解可能な形へ変換しようとする。

そして小説そのものもまた、読者に対してかなり似たことをする。

曖昧な意味を放置せず、

「この出来事は、こういう意味なのだ」

と整理して差し出してくれる。

だから私は、『コンビニ人間』の説明の多さを、単純に文章上の弱点とは考えにくくなってきた。

むしろこの作品は、

「普通とは何か」というかなり厄介な問いを、コンビニ弁当のように手に取りやすい形へパッケージした小説

なのではないだろうか。

そのパッケージは、ときには少し過剰包装に見える。

しかし、その過剰さまで含めて『コンビニ人間』の文章の個性なのだと思う。



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