冒頭に見る『コンビニ人間』の文章作法――「説明しない」のではなく「あとで説明する」

冒頭に見る『コンビニ人間』の文章作法――「説明しない」のではなく「あとで説明する」

記事
学び
村田沙耶香『コンビニ人間』を読み返していて、面白いことに気づいた。

この小説は、決して「説明をしない小説」ではない。

むしろ、かなりはっきり説明する。

主人公が何を感じているのか。
コンビニが主人公にとってどんな場所なのか。
「普通」であることが何を意味しているのか。

そうしたことを、作者はかなり明確な言葉で書いている。

それなのに、読んでいて「説明ばかりだ」という印象を受けにくい。

なぜなのだろう。

冒頭を注意深く読んでいくと、一つの文章作法が見えてくる。

村田沙耶香は、説明しないのではない。説明する時点をずらしている。

まず「意味」ではなく「出来事」を置く

コンビニのオープニングセール。

主人公は初めて接客を経験する。

その場面に、こんな一文がある。

「横にいた社員の言葉をそのまま、私は繰り返した」(19頁)

何気ない一文である。

しかし、『コンビニ人間』全体を知ったうえで読むと、「そのまま」という言葉が重要に思えてくる。

主人公は自分で適切な接客方法を考え出したわけではない。

横にいる社員を観察し、社員が発した言葉を模倣する。

ここではまだ、

「私は他人を模倣することで、社会に適応する方法を身につけた」

などとは説明されない。

まず、

他人の言葉をそのまま繰り返す人

という具体的な姿だけが読者の前に置かれる。

社員から次の客が来ていることを知らされると、主人公はまた接客へ向かう。

そうやって彼女はコンビニ店員になっていく。

そして後から「世界の正常な部品」(20頁)と名づける

その一連の場面のあと、主人公は自分が「世界の部品」になったと認識する。そして、「正常な部品」としての自分が誕生したのだと意味づける。

ここで先ほどの、

「そのまま私は繰り返した」

という一文の意味が変わる。

単なる新人店員の接客描写ではなかったのだ。

主人公にとってコンビニとは、これまで誰も教えてくれなかった「普通になる方法」を具体的に教えてくれる場所だった。

社会は、

「普通に振る舞いなさい」

とは言う。

しかし、何をすれば「普通」なのかを逐一教えてはくれない。

コンビニは違う。

制服がある。
接客用語がある。
声の出し方がある。
レジの操作方法がある。
商品の並べ方まで決まっている。

つまり、「店員」という型が用意されている。

主人公はその型を模倣することで、初めて「正常な部品」として世界に接続できた。

ここで作品の「普通とは何か」という問いが、かなり明確に姿を現す。

ただし、少し言いすぎてもいる


一方で、この場面には文章上の過剰さも感じた。

「世界の部品になった」という比喩だけでも強い。

さらに「自分が生まれた」という意味が重ねられ、そのうえ「正常な部品」として「誕生した」という趣旨がもう一度畳みかけられる。(20頁)

一文で十分伝わったものを、もう一度言い直しているようにも見える。

もし途中で止めれば、

「世界の部品になることが、なぜこの主人公にとって誕生なのだろう?」

という問いを読者に預けることができたはずだ。

だから私は、この部分には若干の説明過剰さを感じる。

ただし、単純に「削ればよかった」とも思わない。

なぜなら、ここで「正常」と「部品」という言葉を強く打ち出したことが、その後の展開を読むための基準になるからだ。

18年後、「変わらない」ことが問題になる

時間が流れる。

コンビニのスタッフは入れ替わり、店長も代替わりしていく。

そんな変化を描いたあとに、主人公について、

「私は変わらず店員のままだ」(21頁)

という意味の一文が置かれる。

ここが面白い。

開店当初、

コンビニ店員になること=正常な部品になること

だった。

ところが18年間それを続けると、同じ状態が今度は周囲から不安視されるようになる。

少し後には、いつまでも就職せず、同じ店でアルバイトを続ける主人公を家族が心配するようになったことが語られる。

ここで「変わらず店員のまま」という先ほどの一文が回収される。

主人公は変わっていない。

しかし、「普通」のほうが変わってしまった。

若いころにはアルバイト店員として働くことで「正常な部品」になれた。

ところが年齢を重ねれば、

「なぜ就職しないのか」
「なぜずっとアルバイトなのか」

という別の「普通」を要求される。

主人公は、普通になる方法をようやく身につけた。

しかし、その普通には有効期限があったのである。

「普通」は固定された規則ではない

ここにはかなり皮肉な構造がある。

主人公は社会から逸脱したくてコンビニに居続けたわけではない。

むしろ逆だ。

正常な部品であり続けるために、身につけた型を忠実に守っている。

ところが、その忠実さによって、いつの間にか「普通ではない人」になってしまう。

これは「普通」という概念の奇妙さをよく表していると思う。

普通とは、マニュアルのように一度覚えれば終わるものではない。

20歳に要求される「普通」と、30歳に要求される「普通」は違う。

仕事、結婚、家族、収入。

社会の側が人生の進行に合わせて「正常」の条件を書き換えていく。

ところが主人公は、コンビニで初めて手に入れた「正常の型」を守り続ける。

普通になろうとした人間が、普通を守り続けたために普通から外れていく。

『コンビニ人間』冒頭の面白さは、すでにここに仕込まれている。

「伏線回収」ではなく「意味の回収」


そして文章を書く側として特に興味深かったのが、この情報の出し方だった。

「社員の言葉をそのまま繰り返した」

と、まず事実を置く。

その後で、

「正常な部品」

という意味を与える。

さらに、

「変わらず店員のまま」

と置く。

その後で、家族がその状態を不安視していることを明らかにする。

これはミステリーでいう「伏線→回収」とは少し違う。

出来事ではなく、意味が回収されている。

最初の文章は、それだけでも意味が通じる。

ところが後の文章を読むことで、

「あの一文には、こんな意味もあったのか」

と読者が前の文章を読み直すことになる。

構造として書けば、

A → B → C

ではない。

A → B → C → Aを別の意味で読み直す

となる。

ここに小説ならではの時間が生まれている。

「説明するな」ではなく「いつ説明するか」

小説を書くと、

「説明しすぎないほうがいい」
「読者を信頼したほうがいい」

とよく言われる。

もちろん、それが有効な場合もある。

しかし『コンビニ人間』の冒頭を読むと、もう少し複雑に考えたほうがよさそうだ。

この作品は説明している。

しかも、ときにはかなり明確に説明する。

重要なのは、

説明するか、しないかではない。

いつ説明するのか。

描写した直後に意味まで説明してしまえば、読者が考える余地はほとんどなくなる。

しかし、一度文章を読者の前に投げておく。

読者はいったん自分なりにそれを受け取る。

少し時間が経ってから別の文章を置き、以前の文章に新しい意味を与える。

そうすれば、説明的な文章そのものを使いながら、読者の能動的な読みを残すことができる。

『コンビニ人間』の冒頭から私が学んだのは、

「説明を削る」という文章作法ではなく、「説明を遅らせる」という文章作法

だった。

一文を置く。

すぐには全部を説明しない。

少し先へ進む。

そして後から、その一文の意味を変える。

文章の巧さとは、一文一文を美しく磨くことだけではない。

ある一文を、数ページ後の文章によってもう一度読ませること。

『コンビニ人間』の平明な文章の裏側には、そんな設計があるように思う。

ただし、「遅らせた説明」をさらに説明することもある


一方で、読み進めると、この作品には説明を遅らせるだけでなく、すでに伝わった意味をさらに敷衍する箇所もある。

家族が、いつまでも就職せず同じコンビニで働き続ける主人公を不安視する。ここまでで、かつて「正常な部品」になるために獲得したコンビニ店員という型が、18年後には逆に「普通ではない」と見なされ始めたことは十分に伝わる。

ところが直後、主人公は「マニュアルがあれば店員にはなれるが、その外で普通の人間になる方法が分からない」という趣旨の自己分析をする。

これはかなり明確な敷衍である。第一段落で描いたことを、第二段落で概念化して説明し直している。

文学的な余白だけを考えれば、やや語りすぎとも言えるだろう。

ただし、『コンビニ人間』の場合、この説明過剰さを単純な欠点とも言い切れない。主人公はそもそも、「普通」を自然に身につけるのではなく、周囲を観察し、規則として理解し、模倣する人物だからである。

つまりこの作品では、

「説明を遅らせる」という文章技法と、「説明することそのものによって主人公の認知を表現する」という人物造形が併存している。

『コンビニ人間』の平明で、ときに説明的な文章を考えるうえで、この二つは分けて見る必要があるように思う。

『コンビニ人間』は、「普通」という厄介な問いを、コンビニ弁当のように手に取りやすくパッケージして差し出す小説である。
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す