小説を推敲していると、よく気になることがあります。
「ここ、ちょっと説明しすぎではないか」
という問題です。
人物が怒ったことは行動から十分に伝わっているのに、「私は腹が立った」と書く。
悲しんでいることが描写から分かるのに、「私は悲しかった」と説明する。
こうした文章を見ると、
「そこまで書かなくても読者は分かるのではないか」
と思うことがあります。
私自身、自分の小説を推敲するときにも、この「説明しすぎ」をかなり気にしています。
ところが最近、宇佐見りん『推し、燃ゆ』を精読していて、少し立ち止まりました。
説明的であることは、本当にそれだけで欠点なのだろうか。
今回はそんな話です。
洗濯物が主人公を傷つける
『推し、燃ゆ』には、主人公がある人物の持っている洗濯物を見て、強く傷つく場面があります。
ここで重要なのは、主人公がそれまで必死になって集めてきたものとの対比です。
主人公の部屋には、
ファイル
写真
CD
など、「推し」にまつわるものが大量にあります。
長い時間をかけ、お金も使って集めてきたものです。
ところが、それら大量のコレクションに対置されるのが、
たった一枚のシャツや、一足の靴下。
ここが非常にうまい。
量だけを比べれば、主人公が集めてきたもののほうが圧倒的です。
しかし、シャツや靴下には、それとはまったく違うものが宿っています。
生活です。
誰かが今日それを着た。
脱いだ。
洗濯する。
乾けば、また着るかもしれない。
そこには、主人公がいくら写真やCDを集めても手に入れることのできない、推しの「現在」がある。
つまり、
大量の「推しの痕跡」
<
たった一枚の「推しの生活」
という逆転が起きています。
この対比だけでも、かなり多くのことが読めます。
ところが、作者は説明する
私が引っかかったのは、そのあとです。
作者は洗濯物を提示して終わりません。
シャツや靴下が、一人の人間の「現在」を感じさせるという意味を言葉にし、さらに、引退した推しの現在をこれからも近くで見続けられる人が存在する、というところまで主人公に認識させます。
私は最初、
「ここまで説明しなくてもいいのではないか」
と思いました。
だって、もう洗濯物がある。
大量のグッズと、たった一枚のシャツ。
その対比を読者に預けてもいい。
もう少し技巧を凝らして、直接言わずに読ませる方法だって考えられるでしょう。
それでも作者は、かなりストレートに意味を書いている。
なぜだろう。
「説明的」と「重複」は同じではない
そこで、一つ気づきました。
私はこれまで、
説明的な文章
を一括りにしすぎていたのかもしれません。
例えば、こんな文章があったとします。
思わず舌打ちが出た。私は余裕をなくしていた。
もちろん文脈によりますが、「舌打ち」という行動によって、すでに苛立ちや余裕のなさがかなり表現されています。
その直後に、
私は余裕をなくしていた。
と書けば、先ほど描写したものを説明でもう一度なぞっている可能性があります。
描写→説明
と進んでいるように見えて、情報としてはほとんど前進していない。
これなら、
「説明しすぎでは?」
という疑問には意味があります。
しかし『推し、燃ゆ』の洗濯物の場面は、少し違います。
洗濯物を見た。
そこから、
自分がどれだけ推しの痕跡を集めても所有できない「現在」を、この人はこれからも見続けることができる
という認識へ進んでいる。
つまり、説明ではある。
しかし、単なる言い換えではありません。
意味が一段進んでいる。
ここは重要な違いではないでしょうか。
「説明しない文章=文学的」ではない
小説を書いていると、
「説明しないほうが文学的だ」
という誘惑があります。
心理を直接書かない。
行動で見せる。
象徴的な物を置く。
あとは読者に委ねる。
確かに、それが非常に効果的な場面はあります。
しかし、すべてをその方法で書けばいいのでしょうか。
私は最近、そうでもないと思うようになりました。
作品には、
ここだけは意味を曖昧にしたくない
という場所もある。
作者が読者に解釈を委ねるより、
「この人物はいま、これを突きつけられたのだ」
と明確に打ち込んだほうがいい場所もあるでしょう。
『推し、燃ゆ』のこの場面では、洗濯物という具体物だけでも表現は成立している。
それでも作者は、そこから主人公の認識へ踏み込みます。
これは技巧が足りないというより、
技巧的な含意より、意味の確定を優先した
と読むこともできると思うのです。
具体物から意味へ上がっていく
この場面が単なる説明文になっていない理由は、もう一つあります。
いきなり、
私は、自分には知ることのできない推しの現在を彼女だけが知ることに傷ついた。
と書いているわけではありません。
まず、
洗濯物
があります。
さらに、
シャツ
がある。
靴下
がある。
そこから、
一人の人間の現在
へ移る。
そして最後に、
その現在をこれからも近くで見続ける人がいる
という認識へ到達する。
つまり、
物
↓
生活
↓
現在
↓
主人公と他者との決定的な距離
と上がっていく。
だから説明的ではあっても、最初から観念だけを提示する文章とは違うのだと思います。
推敲で問うべきなのは「説明しているか」ではなかった
これは、自分の小説を推敲するうえでも大きな気づきでした。
これまでは、
「この一文は説明的ではないか」
と問うことが多かった。
でも、この問いだけでは粗すぎる。
本当に問うべきなのは、
「この説明によって、何が増えたのか」
ではないでしょうか。
直前の描写をそのまま言葉に置き換えただけなのか。
それとも、具体的な描写から作品の重要な認識へ一段進んだのか。
さらに、
なぜ作者は、ここでは読者に委ねず、あえて言葉にしたのか。
そこまで考える必要があります。
説明は「悪」ではない
もちろん、『推し、燃ゆ』が芥川賞受賞作だから、すべての文章が正しいと言いたいわけではありません。
受賞作であっても、
「私はここを削ったほうがいいと思う」
と考えて構わない。
むしろ精読するなら、そのくらい疑って読んだほうが面白いと思っています。
ただ今回、この文章に立ち止まったことで、
「説明的」という言葉を、そのまま欠点の名称として使うのは危険だ
と感じました。
説明には、読者がすでに理解したことを念押しする説明もある。
一方で、具体的な出来事から人物の認識を一段深いところへ進める説明もある。
両者は同じではありません。
だからこれから小説を読むときも、自分の文章を推敲するときも、
「説明している。だから削ろう」
ではなく、
「この一文を削ったら、何が失われるだろう」
と一度考えてみたい。
そしてもう一つ。
「この説明は、物語を前へ進めているだろうか」
とも。
説明することと、文学的であることは、必ずしも対立しない。
問題なのは説明の有無ではなく、
その説明が、すでに読めることを繰り返しているのか、それとも読者をもう一段先へ連れていっているのか。
『推し、燃ゆ』の一節を読みながら、そんなことを考えました。