小説を読んでいて、ときどき「少し説明しすぎではないか」と感じることがあります。
人物がなぜそうしたのか。
なぜそのような状況になったのか。
そして、その出来事をどう受け取ればいいのか。
これらがすべて文章によって説明されていると、確かに読みやすい。
しかしその一方で、読者が考える余地が少なくなることがあります。
最近、橋本陽介『使える!「国語」の考え方』を読んでいて、興味深い指摘に出会いました。
橋本氏は、もし自分が新人賞の審査員で、芥川龍之介の『羅生門』が応募作として送られてきたら、おそらく落とすだろう、という趣旨のことを書いています。(078‐079頁)
文学史上の評価をいったん脇に置き、現在の自分と『羅生門』が直接対話したなら、それほど高く評価しないのではないか。
その理由の一つとして挙げられているのが、主題の明瞭さです。
これはなかなか面白い問題だと思います。
「分かりやすい」は、常に長所なのか
小説では、因果関係が明瞭であることは基本的には長所でしょう。
Aという出来事があった。
だから人物はBと考えた。
その結果Cという行動を取った。
読者は迷いません。
ところが、あまりにも作者がすべてを接続すると、
AだからBであり、そのためCになった。
という「解答」まで小説の側から提示されることになります。
読者に残されている仕事は、その解答を受け取ることだけです。
これを私は、少し極端に言えば「法律論のような文章」と感じることがあります。
事実を提示し、原因を特定し、そこから結論を導く。
論説文なら非常に強い文章です。
しかし小説では、必ずしもそれだけが正解ではありません。
『苦役列車』にも、かなり説明的な文章がある
では、現代の文学では説明を減らせばいいのでしょうか。
そう単純でもないところが面白い。
西村賢太『苦役列車』を読んでいても、冒頭から主人公の境遇や進路、その原因などがかなり説明的に語られていきます。
たとえば、ある結果に至った理由について、単に出来事を置くだけではない。
「なぜそうなったのか」を語り手が整理し、ときには人物への評価まで加えて読者に差し出します。
ここには強い因果があります。
しかし、さらに面白いのは、語り手が何もかも無邪気に断定しているわけでもないことです。
主人公と彼の中学教師との関係性について「〜だったとみえ」といった形で語る。
つまり、
出来事の因果については強く説明する一方、他人の内面については判断を留保する。
この組み合わせがあります。
「こうだった」と言い切るのではなく、「こうだったとみえる」。
ほんの少し距離を取るわけです。
その意味では、因果の明白さと、認識に対する慎重さが同居した、少し変わった語りでもあります。
問題は「説明するか、しないか」ではない
ここまで考えて、私は「説明の多い小説は古い、余白のある小説は新しい」という話ではないと思うようになりました。
重要なのは、
作者がどこまで意味を接続し、どこから読者に渡すのか。
ということではないでしょうか。
たとえば、
彼の成績は非常に悪かった。そのため進学先の選択肢がなく、定時制高校に進むしかなかった。だがプライドの高い彼には、それが耐え難かった。
と書けば、因果関係は完成しています。
一方、
彼の成績はひどかった。進学できる学校はほとんど残っていなかった。入学式の日、彼は校門の前でしばらく立っていた。
と書いたらどうでしょう。
「なぜ立っていたのか」は書いていません。
しかし前に十分な材料が置かれていれば、読者は自分で接続できます。
その瞬間、小説の意味は作者から一方的に渡されるものではなく、読者の中でも作られることになります。
「説明しない」と「材料がない」は違う
ただし、ここには注意も必要です。
説明を減らせば文学的になるわけではありません。
Aという出来事とCという行動だけを書き、その間を読者に任せたとしても、AからCを導く材料が作品内になければ、それは「余白」ではなく単なる情報不足になってしまいます。
私が理想的だと思うのは、
答えそのものは書かれていない。しかし、答えにたどり着ける材料は置かれている。
という状態です。
家族がびしょ濡れになって帰宅したとします。
その直後に「外では雨が降っており、その人は傘を持っていなかった」と説明しなくても、多くの読者は自然に状況を補うでしょう。
小説でも同じです。
読者がすでに読み取れることなら、もう一度作者が説明する必要はないのかもしれません。
『羅生門』をいま読むということ
そう考えると、『羅生門』について「主題が明瞭すぎる」と感じる読みも興味深く思えてきます。
もちろん、『羅生門』の文学史的価値とは別の問題です。
作品が書かれた時代も違います。
しかし、過去の名作という評価をいったん外し、一つの応募原稿のように読む。
すると、
「この作品は、読者にどれほど解釈を委ねているのだろう」
という別の問いが生まれます。
そして『苦役列車』のように、かなり説明的な語りを持ちながら高く評価された作品も存在する。
だから結局、説明の量だけを数えても仕方がないのでしょう。
説明そのものが語り手の人物像を作ることもある。
断定の強さが作品独特のリズムになることもある。
逆に、作者が意味を説明しすぎることで、せっかく作品内に置かれた出来事の力を弱めてしまう場合もある。
私が小説を読むときに最近気にしているのは、
「ここは書いてあるから分かる」のか、それとも「書いていないのに分かる」のか。
という違いです。
後者が成立したとき、読者はただ説明を受け取る人ではなくなります。
文章と文章の間に橋を架ける。
そして、その橋を自分で架けた感覚そのものが、小説を読む面白さの一つなのではないかと思っています。
自分の原稿については、この判断がいちばん難しくなります。何を書いたか覚えているからこそ、「これで読者に伝わるはず」という感覚と、実際に読者が受け取れる量との間にズレが生まれやすいからです。
ご自身の原稿が、どこまで読者に橋を架けさせているか。一人の読者として、実際に読んで確認します。