専門的に書くほど、読者には「また同じ」に見えてしまう——『1R1分34秒』から考える小説の「息つき」

専門的に書くほど、読者には「また同じ」に見えてしまう——『1R1分34秒』から考える小説の「息つき」

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学び
町屋良平『1R1分34秒』を読んでいて、ひとつ気になったことがありました。

この作品には、当然ながらボクシングの場面が数多く登場します。

練習の風景があり、試合があり、ボクサーの身体感覚や技術についても細かく描かれている。

……おそらく前二人の青志くんの対戦相手よりリーチの短い自分は、らくな距離に身をおいていると自分以上に相手のスイートスポットに入ってしまい、ちょうどジャプの力のこもる場所に目が位置してしまう。(8頁、太文字引用者)

作者にとって、それぞれの場面には違いがあるはずです。

しかし、ボクシングについてほとんど知識のない私が読んでいると、ある現象が起こりました。

情報の凹凸が、だんだん均されていくのです。

「またボクシングをしている」になってしまう


これはボクシングに限った話ではないと思います。

専門的な世界について詳しく書けば書くほど、専門知識を持っている読者には解像度の高い世界が見えてくる。

ところが、その知識を持っていない読者には、必ずしも同じようには見えません。

作者が細部までこだわって格闘シーンを書いていたとしても、私には極端にいえば、

「パンチを打った」

「避けた」

「また打った」

くらいの解像度でしか受け取れないことがあります。

分からない専門用語が出てきたからといって、そのたびに本を閉じて意味を調べるわけでもありません。

小説ですから、そのまま先へ進みます。

すると最初は新鮮だった専門的な描写も、読み進めるうちに、

「ああ、またボクシングをしている」

という一つの情報へ圧縮されていく。

書き手が100の違いを書き分けていても、読み手が10しか受け取れないことはあるのだと思います。

だから「息つき」が必要になる


そんななかで、私の記憶に残ったのは、必ずしも専門的なボクシング描写ばかりではありませんでした。

たとえば、食事や弁当にまつわる場面。

あるいは、ジムへ練習に来た女性との関係。

こうしたところでは、ボクシングについて何も知らなくても読むことができます。

食べる。

誰かが誰かのために何かをする。

男女の距離が変わる。

相手のことが気になる。

こうした経験には、専門知識が必要ありません。

それまで専門的な世界を追いかけていた読者が、ふっと地面に足をつけられる。

私はこれを、物語における「息つき」のように感じました。

専門用語を説明すれば解決するわけではない


ここで重要なのは、「専門用語には説明を付ければいい」という話ではないと思います。

むしろ小説では、分からないものを分からないまま読み飛ばすことができます。

問題になるのは、その状態が長く続いたときです。

専門知識を持たない読者にとって、

練習。

また練習。

試合。

また練習。

と情報が均質化してしまえば、作者が細かく書き分けた差異が読者には届かなくなってしまう。

だからこそ、

専門的な世界 → 日常 → 専門的な世界 → 人間関係 → 専門的な世界

というように、ときどき誰でも入っていける場所を置く。

その一般性が、読者に呼吸する場所を与えるのではないでしょうか。

専門性を薄める必要はない


だからといって、専門的な描写を減らしたほうがいい、と言いたいわけではありません。

むしろ専門性は、その作品にしかない世界を作る大きな武器です。

ただ、

「作者が細かく書いた」ことと「読者が細かく読んだ」ことは同じではない。

ここは書き手として意識しておいてもいいように思いました。

自分にとっては一つひとつ違う重要な描写でも、読者には同じ種類の情報として圧縮されているかもしれない。

そんなとき、弁当ひとつ、人間関係ひとつ、何気ない日常の出来事ひとつが、読者をもう一度作品につなぎ止める。

『1R1分34秒』を読みながら、私はボクシングそのものだけではなく、そんな専門性と一般性のあいだにある「息つき」について考えました。

そしてこれは、ボクシング小説だけの問題ではないでしょう。

医学でも、音楽でも、数学でも、将棋でも、仕事でも。

専門的な世界を書くときほど、

「その世界を知らない人は、いま何を読んでいるのだろう」

と、ときどき考えてみる。

専門性を捨てるためではありません。

その専門的な世界へ、最後まで読者についてきてもらうためです。

自分の原稿の中で、どこが「またこれか」に均されてしまっているか、書いている本人には案外見えません。読者側からの解像度を確認したい方は、こちらからどうぞ。


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