松永K三蔵『バリ山行』を読む――手堅い完成度と、語りの細部について

 松永K三蔵『バリ山行』を読む――手堅い完成度と、語りの細部について

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松永K三蔵『バリ山行』を読んでいる。

芥川賞受賞作ということで、読み始める前には「どんな新しい小説を見せてくれるのだろう」という期待があった。

しかし、ここまで読んだ私の印象は少し違う。

もちろん、作品としてよくできている。特に自然を描写する力には目を引かれるものがある。

ただ、発想や構成そのものに、

「こんな小説の作り方があったのか」

という驚きがあるというより、既知の枠組みを非常に安定した描写力で成立させている作品、という印象を受けた。

今回は、そんな『バリ山行』について、文章の細部を含めて考えてみたい。

会社と山――構造そのものに新奇さがあるわけではない


『バリ山行』では、会社という世界と山という世界が並行する。

会社での人間関係があり、その一方に山がある。

二つの世界を並べ、一方の世界を通してもう一方を照らし返す。

これは効果的な構造ではある。

ただ、「二つの世界を並走させ、それらを対応させる」という小説の構成そのものは決して珍しいものではない。

たとえば村上春樹『海辺のカフカ』でも、田村カフカを中心とした物語とナカタを中心とした物語が並行して進み、次第に二つの系列が意味を持って響き合っていく。

もちろん『バリ山行』とは作品の性質がまったく異なる。

ここで言いたいのは、単純に、

「異なる二つの領域をパラレルに展開し、その対応関係から意味を立ち上げる」

という構成原理そのものに、新奇さを感じたわけではないということだ。

むしろ私が『バリ山行』に強く感じたのは、描写の安定感、とりわけ自然を文章として立ち上げる力だった。

山という場所を、単なる「会社とは違う世界」として記号的に置くのではない。

そこにある地形、身体感覚、空気、植物などを具体的に描く。

だからこそ山が観念ではなく、実際に人間が身体を置く場所として立ち上がってくる。

もっとも、自然描写の強さという点では、芥川賞受賞作の『影裏』なども思い出す。

そういう意味でも私は、『バリ山行』を大胆な新機軸によって押し切った作品というより、既知の文学的な方法を高い描写力によって手堅く成立させた作品として読んでいる。

良くも悪くも、「置きに来た」という読後感が今のところはある。

長い一文は、本当に悪いのか


文章の細部でも気になったところがある。

たとえば、登山に参加することになる場面。

しかし、行くとなると週末のほとんど丸一日、家を空けることになる。その晩、妻に相談すると、「行ってきたら?」と意外にあっさりOKが出たので、翌日「参加希望」とメールを送ると、トイレで一緒になった松浦さんは「おう波多くん、自分でちょうど一〇人目や」と小便器の前で身体を揺らしながら言った。(004頁)

ここはかなり長い一文になっている。

妻に相談する。

妻からOKが出る。

翌日、メールを送る。

松浦さんとトイレで一緒になる。

参加者が10人になったと知らされる。

時間も変われば場所も変わる。

それでも一文の中で、出来事が次々と流れていく。

私は最初、ここで一度句点を打ってもよいのではないかと思った。

文を切れば、それぞれの出来事の間にわずかな「間」が生まれるからだ。

しかし、ここで注意したい。

長文だから悪い、という話ではない。

むしろ、この場面を「トントン拍子に話が決まっていった」と読ませたいのであれば、原文の長さは機能している。

妻に聞いた。

あっさり許可された。

メールした。

もう10人目だった。

それらを一息で流すことで、主人公自身が十分に立ち止まらないまま、登山へ向かって話が進んでいく感覚が生まれる。

逆に、参加を決める主人公の心理や、「家庭」から「翌日の職場」への場面転換そのものに重みを置きたいのであれば、文を切ったほうがよい。

つまり、

長文か短文かという形式だけで文章の良し悪しは決められない。

文章の速度と、そこで描こうとしている出来事の速度が合っているか。

問題はそこなのだと思う。

作者の知識が、主人公から漏れてはいないか


もう一つ興味深かったのが、主人公の服装についての描写だった。

主人公は山について、

「いつ以来だろう」(003頁)

と過去の記憶を探るほど疎い人物として描かれている。

中学時代に山へ登らされた記憶。

大学時代、旅行先で酔って山道へ入り込んだ記憶。

それくらいしか出てこない。

そして登山当日には、

駅前の広場は多くのハイカーで溢れ、カラフルな登山ウェアに身を包んだ彼らの中で、あり合わせの服を着て来た私は素人丸出しで、ひどく場違いに感じた。(004頁)

と、自分自身を「素人」と認識している。

ところが、その直後には、

レインボーカラーのレッグウォーマーを穿いている多聞さんはもちろん、誘われた谷口さんも格好だけはすっかり山ガールで、同じ営業課の、やはり初心者のはずの栗城も登山ウェアだけは完全にコーディネートされていた。(004‐005頁)

とある。

ここで少し引っかかった。

もちろん「レッグウォーマー」は登山の専門用語ではない。

だから、登山初心者がこの言葉を知っていること自体を不自然だとは言えない。

しかし、もう少し広く見るとどうだろう。

登山経験がほとんどなく、自分自身は「あり合わせの服」で参加するほど装備に無頓着な人物である。

その人物が周囲を見ると、

「カラフルな登山ウェア」

「レインボーカラーのレッグウォーマー」

「山ガール」

「登山ウェアだけは完全にコーディネート」

と、服装について比較的解像度の高い観察を行っている。

ここには、

「登山について何も知らない主人公が見ている世界」

と、

「登山をよく知っている作者が見ている世界」

との境界が、少し曖昧になってはいないだろうか。

小説を書くとき、作者は当然、登場人物より多くのことを知っている。

しかし一人称で書くなら、作者に見えているものをそのまま書けばよいわけではない。

作者には分かる。

しかし、この主人公にも分かるのか。

作者なら分類できる。

しかし、この主人公もその名称を知っているのか。

そのフィルターが必要になる。

極端な例を挙げれば、自動車にまったく興味がない人物が、駐車場を見ただけで車種や年式、ホイールの仕様まで次々と識別していたら、読者は「なぜこの人にそこまで分かるのだろう」と思うだろう。

作者の知識と人物の知識は同じではない。

『バリ山行』のこの一節だけで、人物造形上の齟齬と断定するつもりはない。

しかし、今後読み進めるうえで、

「登山家である作者の視線が、登山初心者である主人公の視線を追い越してはいないか」

という点は注意して見ていきたいと思った。

手堅い作品だからこそ、細部を見る

ここまで読んだ段階で、『バリ山行』を私は低く評価しているわけではない。

むしろ逆である。

文章は安定している。

自然描写には力がある。

会社と山という二つの領域も、分かりやすく配置されている。

だからこそ、「芥川賞受賞作だからすべて巧みなのだ」と一括りにするのではなく、一文一文について考えてみたくなる。

長い一文は本当に悪いのか。

主人公の知識と作者の知識は一致しているか。

構成の巧みさと構成の新しさは同じなのか。

そうやって細かく読んでいくと、受賞作から学べることは、「こう書けば芥川賞を取れる」という模範解答ではなくなってくる。

むしろ、

なぜここでは長く書いたのか。

なぜこの人物にこの言葉を使わせたのか。

この構造は、本当にこの作品に必要だったのか。

そんな問いが次々と生まれてくる。

受賞作を読む面白さとは、作品をありがたがることではなく、こうして文章の選択一つひとつを疑い、自分ならどう書くかまで考えてみることなのかもしれない。


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