私も文章を書く者です。
以前、自分の文章を第三者に見せたとき、こんな指摘を受けたことがあります。
「『た。』『た。』『た。』と過去形が連続していて、文章のリズムがぶつ切りになっています」
言われてから読み返してみると、確かにそうでした。
「~した。~だった。~した」
同じような文末が続いている。
ところが不思議なのは、書いている自分では、それになかなか気づけなかったということです。
さて、松永K三蔵『バリ山行』を読んでいて、このことを改めて考えました。
冒頭近くに、次のような文章(003‐004p.p.)があります。
しかし、行くとなると週末のほとんど丸1日、家を空けることになる。その晩、妻に相談すると、「行ってきたら?」と意外にあっさりOKが出たので、翌日「参加希望」とメールを送ると、トイレで一緒になった松浦さんは「おう波多くん、自分でちょうど一〇人目や」と小便器の前で身体を揺らしながら言った。
私はここを読んで、少し引っかかりました。
「その晩、妻に相談する」
「妻からOKが出る」
「翌日、参加希望のメールを送る」
「トイレで松浦さんと一緒になる」
「参加者が10人になったと知らされる」
かなり多くの出来事が、一文のなかを流れていきます。
時間も「その晩」から「翌日」へ移っています。場所も家庭から職場のトイレへ移っている。
それでも「ので」「~すると」と接続され、一続きの文章として処理されています。
もちろん、これは意図的な文章のリズムかもしれません。
参加がトントン拍子に決まっていく感じを出すために、あえて一息で流しているとも読めます。
ただ、私ならどこかで句点を打ち、文を切ることを考えるでしょう。
出来事と出来事の間に「間」を作ることで、時系列をただ淡々と運ぶ印象を少し弱められるからです。
ところが、自分の文章になると気づけない
ここで私は、自分自身のことを思い出しました。
他人の文章なら、
「ここは一文が長いな」
「同じ文末が続いているな」
「この情報は流れすぎているな」
と気づく。
ところが、自分が書いた文章になると、そのセンサーが急に鈍くなる。
なぜなのでしょうか。
一つ考えられるのは、作者と読者では、文章を読むときに持っている情報量がまったく違うということです。
読者は、基本的に書かれている文章しか持っていません。
文章を一つずつ読み、
「ここは家なのだな」
「翌日になったのだな」
「今度は職場のトイレなのだな」
と、文章から世界を組み立てていきます。
ところが作者は違います。
作者の頭の中には、書く前から世界があります。
登場人物がどこにいるのか。
何を考えているのか。
なぜこの行動を取ったのか。
この場面の前後に何が起きているのか。
文章に書かなかったことまで知っています。
つまり読者が、
「本文」
を読んでいるのに対して、作者は、
「本文+記憶+意図+頭の中にある情景」
を読んでいる。
同じ文章を見ているようで、実は同じものを読んでいないのです。
「~た」の連続が見えなくなる理由
これは、私が指摘された「~た」の連続についても同じことが言えると思います。
たとえば、
「ドアを開けた」
「部屋に入った」
「鞄を置いた」
「椅子に座った」
「窓を見た」
と並んでいたとします。
初めて読む人なら、
「た。た。た。た。た」
という同じリズムが目につくかもしれません。
ところが作者の頭の中では違います。
「ドアを開ける」
「部屋へ入る」
「鞄を置く」
「椅子に座る」
「窓を見る」
という、それぞれ異なる出来事として読んでいる。
作者の意識は「何が起きているか」という意味のほうへ向かっています。
そのため、「すべて同じ文末になっている」という文章表面の問題が見えにくくなるのではないでしょうか。
推敲で怖いのは、脳が文章を補ってしまうこと
誤字脱字についても似たことがあります。
何度読み返しても気づかなかった誤字を、他人は一読して見つける。
これは単純に「注意力が足りなかった」で済まない場合があります。
自分は次に何が書かれているかを知っているからです。
文章を一文字ずつ受け取る前に、
「ここにはこう書いてあるはずだ」
と脳が先回りしてしまう。
言い換えれば、間違った文章を正しく読んでしまうことさえある。
小説では、これは誤字以上に厄介です。
作者には人物の心理が分かっている。
作者には場面が見えている。
作者には伏線の意味が分かっている。
だから本文に十分書かれていなくても、作者自身には「伝わる」。
しかし初見の読者には、その補助情報がありません。
ここに作者と読者の大きな断絶があります。
◉だから第三者に読んでもらう意味がある◉
第三者に原稿を読んでもらう価値は、「自分より文章のうまい人に正解を教えてもらう」ことだけではないと思っています。
その作品について何も知らない人に読んでもらうこと自体に価値がある。
作者には見えているものが、その人には見えない。
作者なら無意識に補ってしまうところで、その人は立ち止まる。
作者なら読み飛ばしてしまう文末の反復に、その人は引っかかる。
その「引っかかり」は、作品についての知識がないからこそ生まれるものでもあります。
そして、だからこそ「原稿を寝かせる」という方法にも意味があるのでしょう。
時間を置くことで、自分のなかにある作品の記憶を少し薄める。
完全に初見の読者になることはできません。
それでも、
「作者として読む自分」から「読者として読む自分」へ、少しだけ距離を取る。
推敲とは、文章を書き換える作業であると同時に、この距離をどう作るかという作業なのかもしれません。
他人の文章なら気づける。
自分の文章では気づけない。
これは必ずしも「自分に文章を見る能力がない」ということではないのでしょう。
むしろ、自分の文章についてだけは、知りすぎている。
文章を書くという行為には、そんな不思議な盲点があるのだと思います。
そしてこれは、もちろん私自身への自戒でもあります。