「悲しかった」と書かなくても、悲しさは伝わるのか

「悲しかった」と書かなくても、悲しさは伝わるのか

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学び
小説を読んでいると、ときどきこんな文章に出会います。

ある出来事が描かれ、その場面から人物の感情が十分に伝わってきたところで、

「寂しく感じた」
「悲しかった」
「腹が立った」

と、最後に感情そのものが言葉にされる。

もちろん、それが悪いわけではありません。

むしろ感情を明示することで、人物の内面を正確に読者へ届けることができます。

しかし私は小説を読むとき、ときどき思うのです。

ここまで書かなくても、読者は分かるのではないか。

火葬場を走る、おもちゃの車

最近読んだ小説に、火葬場の待合ホールで子供たちが遊んでいる場面がありました。

大人たちが死者を見送ろうとしている場所で、子供たちはおもちゃを持って走り回っている。

平坦な大理石の床では、おもちゃの車が実によく走る。

そして子供たちの明るい声が響いている。

ここには、すでに強い対照があります。

死と子供。
喪失と遊び。
止まってしまった一人の時間と、何事もなく続いていく日常。

ところが作者は、さらにその子どものはしゃぐ声が「寂しく」聞こえたことを記します。

私はここで立ち止まりました。

「寂しい」と書かなかったら、どうなるだろう。

火葬場で、子供たちが遊んでいる。

おもちゃの車が大理石の上を滑らかに走っていく。

それだけでも、十分に寂しくないだろうか。

むしろ「寂しい」と名づけないことで、読者自身がその寂しさを発見できるのではないか。

万引きした我が子を迎えに行く自転車

別の小説でも、よく似たことを感じました。

我が子がスーパーで万引きをした。

親は自転車で迎えに向かわなければならない。

ところが道にはほとんど人がいない。

邪魔するものもない。

自転車は快調に進んでいく。

作者は、そのスピード感を「物悲しい」ものとして描いていました。

これも非常によく分かります。

しかし、ここでも私は考えました。

「物悲しい」と書かなかったらどうなるのだろう。

たとえば、

「ほとんど往来のない歩道。信号にも捕まらない。自転車は快調に進んでいく」

ここで止める。

すると不思議な構造が現れます。

本人は、できることならスーパーへ行きたくない。

我が子の万引きという現実に直面したくない。

それなのに道路は空いている。

信号にさえ捕まらない。

自転車はどんどん目的地へ近づいていく。

心は進みたくないのに、身体だけが進んでいく。

「物悲しい」と一言も書いていないのに、そこから物悲しさが立ち上がってくる可能性があります。

感情を書くのではなく、感情が生まれる「配置」をつくる

この二つの場面には共通点があります。

火葬場なのに、おもちゃの車は滑らかに走る。

我が子が万引きをしたのに、自転車は滑らかに進む。

人間にとっては重大な出来事が起きている。

しかし世界は、その人の悲しみに合わせて速度を落としてはくれません。

床はいつも通り平らです。

自転車はいつも通り進みます。

子供はいつも通り笑います。

世界は正常に動き続けている。

その「正常さ」が、かえって悲しい。

私は、ここに小説の面白さがあると思っています。

「悲しかった」と書くことによって悲しさを伝えることもできる。

しかし、

悲しいと書かず、読者の中に悲しさが発生するように場面を配置する。

という方法もあります。

では、感情語は削ればいいのか

もちろん、そんな単純な話でもありません。

「寂しかった」「物悲しかった」と書くことには意味があります。

場面そのものの性質ではなく、

その人物には世界がそのように見えている

ことを明確にできるからです。

問題は「感情語があるか、ないか」ではありません。

問題は、

この感情語は、すでに場面が語っていることをもう一度説明しているのか。
それとも、この人物にしかない知覚を新たに加えているのか。

ということだと思います。

私は小説を読むとき、こうした小さな箇所で何度も立ち止まります。

一語削ったら、読者にはどう見えるのか。

逆に一語削ったために、作者が伝えたかったものまで消えてしまわないか。

「説明的だから削る」と機械的に判断するのではなく、その言葉を取り除いた状態を頭の中で一度作り、読み比べる。

これが大切だと考えています。

自分の小説は、自分では「補って」読んでしまう

そして、これは自作を推敲するときほど難しくなります。

作者は、登場人物の過去も、性格も、その場面を書いた意図も知っています。

そのため文章に少しくらい飛躍があっても、頭の中で無意識に補って読むことができます。

反対に、

「ここは読者には伝わらないのではないか」

と心配になり、説明を重ねすぎることもあります。

どこまで書けば伝わるのか。
どこから先は読者に委ねられるのか。

作者自身では、この境界が意外に見えにくいものです。

私が小説の文章・感想サービスで大切にしているのも、まさにこの部分です。

「この文章は正しい/間違っている」と採点するのではありません。

実際に一人の読者として読み、

ここまでは文章だけで読み取れた。
ここからは作者の説明がなければ読み取れなかった。
ここは逆に、説明される前にすでに感じ取れていた。

その境界を具体的にお返しします。

小説を書いていて、

「説明しすぎていないだろうか」
「逆に、読者を置き去りにしていないだろうか」
「自分には分かるけれど、初めて読む人にも伝わるだろうか」

と気になった方へ。

作者ではない一人の読者が、あなたの文章から実際に何を受け取ったのか。

その確認役として、作品を丁寧に読ませていただきます。

朝比奈秋『サンショウウオの四十九日』82頁(火葬場のシーン)
横関大『再会』13頁(万引きのシーン)
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