小説を読んでいると、
「意味は分かる。でも、なぜか引っかかる」
という文章に出会うことがあります。
誤字でもない。
文法的に完全な誤文とも言い切れない。
それでも、一度立ち止まってしまう。
私は小説を講評するとき、この小さな違和感を大切にしています。
文章を「正しい/間違い」で採点するのではなく、
なぜここで読者の認知に摩擦が生じるのか。
そこまで掘り下げてみます。
今回は、実際に小説を読みながら考えた例をもとに、5つの観点を紹介します。題材は『サンショウウオの四十九日』です。
①「すべての臓器を共有している」のに、一人だけ喘息になる?
作品には、身体のつながった姉妹について、
「すべての臓器をシェアしている」(58頁)
という設定が登場します。
ところが後の場面では、一方だけが喘息に苦しみ、もう一方が代わりに息を吐いてくれた、という回想が出てきます。(73頁)
ここには検討の余地があります。
58頁では「すべての臓器をシェアしている」と設定されている。一方73頁では、喘息による呼気障害が「私」にのみ生じ、瞬が代わって息を吐くことができるように描かれている。
呼吸器系まで共有している設定なら、なぜ一方だけに喘息症状が生じ、もう一方の呼吸によってそれを補えるのでしょうか。
もちろん、特殊な身体構造を設定すること自体は小説の自由です。
問題はそこではありません。
作品自身が提示した設定と、後に提示される現象との関係です。
「すべての臓器をシェアしている」という強い設定と、
「吸う私/吐く瞬」
という文学的な相補性との間に、齟齬が生じているように読めます。
むしろ後者だけを取り出せば、とても小説的です。
一人は吸う。
一人は吐く。
二人で一つの呼吸を完成させる。
魅力的なモチーフだからこそ、身体設定との整合性が取れていれば、さらに強くなるはずです。
② 胎内ではふっくらしていたのに、出生すると「栄養を奪われて」痩せる?
父と伯父には「胎児内胎児」という設定があります。
胎児内胎児である父が伯父の体内に存在し、伯父から栄養や酸素の供給を受けていた、という設定です。
これ自体は作品内の設定として理解できます。
ところが、ここでも前後をつなぐと疑問が生じます。
母親の胎内にいた伯父は、出産直後、
「誰が見てもふっくらとしていた」(6頁)
と描写されている。
つまり母体内では、
母体 → 伯父 → 体内の父
という経路で父にも栄養を供給しながら、伯父自身もふっくら成長できていたことになります。
ところが出生後、伯父はどんどん痩せていく。
その理由として、体内の父に栄養を奪われていることが示唆されます。
ここで疑問が生じます。
なぜ同じ寄生関係なのに、胎内では伯父を痩せさせず、出生後には急速に痩せさせるのでしょうか。
もちろん説明は可能です。
出生によって栄養供給が胎盤から哺乳へ変わり、供給量が需要を満たせなくなった。
出生後には呼吸、体温維持、運動など、新たなエネルギー消費も生じた。
そう考えれば必ずしも論理矛盾ではありません。
しかし、作品がそこを示さないのであれば、因果関係の一段が抜けているように読者には見えます。
ここで私が見ているのは医学知識の正誤だけではありません。
小説内で、
AだからBになった。
という因果を提示した以上、
その因果が別の場面でも成立しているか
を見るわけです。
③ 「呆れて黙ってしまいそうになった」のは誰なのか
文章の違和感は設定だけではありません。
こんな場面がありました。(72頁から73頁)
父親の到着が遅いため、誰かが電話をかけます。
父親は、
渋滞は抜けたが、コンビニで食事を買って休憩しているので、もう少しかかる
という趣旨のことを答える。
その直後、
「呆れて黙ってしまいそうになった瞬間」(73頁)、
と続き、さらに、
「『出棺したら、いくらでも食べる時間あるから』/瞬が低い声で話して」(73頁)
と瞬という人物が発言します。
問題は、
誰が電話しているのでしょうか。
直前まで前景化されていた人物を追えば母親とも読める。
ところが、直後には瞬が発言している。
そのため、
「電話をしていたのは瞬だったのか?」
という読みも排除できません。
さらに電話しているのが母親なら、
呆れて黙ってしまいそうになった
の主体も母親と読める可能性があります。
しかし、一人称の語り手が別に存在するなら、「黙った」という観察可能な事実ではなく、
「黙ってしまいそうになった」
という他者の寸前の心理状態まで、どうして分かったのでしょう。
ここでは、
主語省略による照応の曖昧さ
と
一人称視点から知ることのできる範囲
という二つの問題が重なっています。
日本語では主語を省略できます。
しかし、
省略できることと、省略しても読者が迷わないことは別です。
答えは、遅れて出てきます。
「電話口では瞬はいろいろと父にまくしたて」(73頁)とあります。
瞬でした。
④ 「気丈な足つき」(71頁)は、どんな足つきなのか
別の箇所には、
気丈な足つきで歩いてきた
という表現があります。
これも意味は推測できます。
おそらく、
「つらい状況でも気持ちをしっかり保ち、毅然として歩いてきた」
ということでしょう。
しかし「気丈」は本来、人間の精神的なあり方を表す語です。
「気丈な人」
「気丈に振る舞う」
なら自然です。
それを、
「足つき」
という身体の局所へ直接接続している。
すると私は、
「具体的に、どんな足の運び方をすれば『気丈』に見えるのだろう?」
と立ち止まります。
もちろん、小説では通常結びつかない語を結びつけることがあります。
それが新しい表現を生むこともある。
だから私は、珍しい表現を見つけただけで「誤用」とは判断しません。
大切なのは、
その逸脱によって新しい像が立ち上がっているのか、それとも単に意味の橋が足りないのか。
たとえば、
ゆっくりと、しかし確かな足取りで歩いてきた。
なら、読者はまず身体運動を見る。
そこから、
「この人物は気丈に振る舞おうとしているのではないか」
と心理を推測できます。
作者が「気丈」と説明するのか。
読者に「気丈だ」と発見させるのか。
これは小さく見えて、かなり文学的な問題だと思います。
⑤ 「文学的に美しい」ことと「設定上成立する」ことは別
ここまでの例には、一つ共通点があります。
喘息の場面なら、
「私は吸う/瞬は吐く」
という二人の相補性。
胎児内胎児なら、
もう一人の人間に栄養を奪われながら生きる身体。
「気丈な足つき」なら、
精神状態を身体そのものへ移そうとする表現。
どれも作者が何を表現したいのかは、ある程度理解できます。
そして、そこが大切です。
講評で、
「医学的におかしい」
「この日本語は変だ」
と赤線を引くだけなら、作品の一番面白いところを壊してしまうことがあります。
私はむしろ、
作者がやろうとしていることを残したまま、その表現を成立させられないか
と考えます。
「吸う私/吐く瞬」という発想が魅力的なら、消す必要はありません。
必要なのは、それが成立する身体設定なのかを確認することです。
胎児内胎児という発想を捨てる必要もありません。
必要なら、出生前後で栄養収支が変わったことをほんの少し補えばよいかもしれない。
珍しい比喩も同じです。
変わった表現だから直すのではありません。
その違和感が作品に必要な違和感なのか、作者が意図していない違和感なのか。
そこを考えます。
私が小説講評で見たいのは「間違い探し」ではありません
小説を読んでいると、小さな引っかかりが出てきます。
そのとき私は、
「変だから直しましょう」
ですぐに終わらせたくありません。
なぜ引っかかったのか。
前のページの設定とつながっているか。
語り手に本当にそれが分かるのか。
その言葉から読者は具体的な像を作れるのか。
そして何より、
作者はここで何をやろうとしているのか。
そこまで遡って読みたいと思っています。
小説には、説明しすぎないことで生まれる余白があります。
一方で、説明が一つ欠けただけで、作者が意図していない疑問を読者に抱かせてしまうこともあります。
その境界は、案外難しい。
だからこそ私は、
「正しい文章に直す」のではなく、「この作品がやろうとしていることが、読者にも同じように立ち上がるか」を第三者として確かめる。
そんな読み方を、小説の講評では大切にしています。