芥川賞を受賞した作品だからといって、一文一文まで隙なく磨かれているとは限りません。
ある芥川賞作品(『サンショウウオの四十九日』)をかなり細かく読んでいると、「意味は分かる。でも、なぜか引っかかる」という文章に何度も出会いました。
面白いのは、それらを一つずつ検討していくと、同じ「違和感」でも原因がまったく違うことです。
小説を講評するとき、「なんとなく変です」で終わらせず、その違和感がどこから生じているのかを考えてみます。
1.文法的には対称なのに、意味が対称ではない
胃カメラで胃の内部を観察する場面に、
「突き出たものはないし、へこんだものもない」(9頁)
という趣旨の文章がありました。
形だけ見れば非常にきれいです。
「突き出た/へこんだ」が対になり、両方に「もの」が付いています。
ところが、「突き出たもの」は腫瘍やポリープなどの実体として理解できますが、「へこんだもの」は少し妙です。
胃壁の一部が陥凹しているのであれば、存在するのは「へこんだもの」というより、
「へこんだ箇所」
でしょう。
たとえば、
「隆起した箇所も、へこんだ箇所もない」
とすれば意味上の対称性まで成立します。
これは、構文上の対称性に引っ張られて、意味上の違いが見えにくくなった例だと思います。
2.前後の所見は、本当に矛盾しているのか
その後、胃にさらに空気を入れると、
「胃の右側の壁だけがでっぱっている」(10頁)
という所見が現れます。
先ほど「突き出たものはない」と確認したのに、今度は「でっぱっている」。
一見すると矛盾しています。
ただし、これは医学的には別の現象として理解できます。
最初に見ていたのが胃壁そのものに生じた隆起や陥凹で、後から見つかったものが胃の外部から押されることで生じた変形なら両立します。
問題は、その違いが文章から十分に読み取れるかです。
「粘膜そのものに隆起や陥凹は認められない」と限定しておけば、その後に壁外からの圧迫が見つかっても混乱しません。
ここでは医学的事実そのものより、観察の対象が変わったことを文章が読者へ伝えられているかが問題になります。
3.比喩は分かる。でも途中が一段抜けている
胃の外側にある何かの形が胃壁に浮かんでいる。それを、
「まるでクイズ番組のようだった」(9頁)
と表現する箇所もありました。
言いたいことは分かります。
直接その物体を見ることはできない。しかし輪郭だけが現れている。それを手掛かりに正体を推測する。
おそらく「シルエットから正体を当てるクイズ」のようなものを想定しているのでしょう。
ところが「クイズ番組」だけでは範囲が広すぎます。
早押しクイズも漢字クイズもクイズ番組です。
ここでは、
《正体そのものは見えず、輪郭から推測する》
という共通項が重要です。
比喩にはAとBがあります。しかし、AとBを並べただけで成立するとは限りません。
「AとBの何が似ているのか」
をどこまで言葉にするか。
この文章では、そこを少し節約しすぎているように感じました。
4.一文ではなく「場面の緊張」が壊れることもある
さらに興味深かったのが、老医が赤ん坊の胃に異常な圧迫を発見した直後、郷里について語り始める場面です。
読者にはすでに、
「いったい何が胃を押しているのか?」
という問いが生じています。
ところが、その途中で老医が一言二言ではなく、ある程度まとまった郷里語りを始める。
ついには赤ん坊の母親から、
「郷里がお懐かしいですか」(11頁)
という趣旨の言葉で牽制されます。
検査中に医師が雑談すること自体が、ただちに不自然なわけではありません。
しかし、原因不明の所見を発見して調べている途中です。
異常発見 → 原因究明
という緊張した流れの途中へ別の話題をまとまった分量で入れると、場面が弛緩します。
文章講評というと、一文一文の表現ばかり見がちです。
しかし、その文章が場面全体の緊張をどう動かしているかも重要なのだと思います。
5.嫌味なのに「声を漏らす」
母親の台詞には、
「郷里がお懐かしいですか」
と不満げに声を洩らした。(11頁)
という趣旨の表現が続きます。
ここで母親が本当に老医の郷里に興味を持っているとは考えにくい。
「いまは私の子どもの検査中でしょう」
という不満を含んだ牽制でしょう。
だとすれば、「声を漏らす」との組み合わせが気になります。
「声を漏らす」には、
痛みに声を漏らす。
思わず驚きの声を漏らす。
など、内側から意図せず声がこぼれる感触があります。
しかし母親の言葉は老医という明確な相手に向けられています。
つまり、
《思わず漏れる》と《相手へ嫌味を言う》
という発話の方向性にずれがあります。
むしろ単純に、
「郷里がお懐かしいですか」と母親は言った。
だけでも、文脈が十分なら嫌味は伝わります。
6.「冷静さを取り戻した」のに、まだ気まずそう
その後、老医について、
冷静さを取り戻す
↓
バツが悪そうにカメラを覗く
↓
誤魔化すように写真を撮る
という描写が続きます。
ここにも面白いずれがあります。
「冷静さを取り戻す」と書けば、
郷愁に浸る老医 → 医師としての老医
という局面転換が成立するはずです。
ところが「バツが悪そう」「誤魔化すように」と重ねることで、直前の郷里語りをまだ心理的に引きずっています。
それどころか、
「別にお菓子なんて持ってないよ」
と言いながら後ろに手を隠す子どものような、少しコミカルな印象さえ出てきます。
もし作者が愛嬌のある老医を描こうとしているなら成立します。
しかし緊張した医療場面を描きたいのなら、この心理描写の重ね方によって、場面の重心そのものが変わってしまいます。
7.「ため息の要領で」という不思議な組み合わせ
さらに、
「ため息の要領で指示を出し」(11頁)
という趣旨の表現もありました。
私はここでかなり立ち止まりました。
普通なら、
ため息交じりに指示を出す
ため息をつくように指示を出す
などでしょう。
「要領で」は、
同じ要領で作業する。
など、ある動作の仕方や手順を別の動作へ応用するときによく使われます。
ところが「ため息」に「要領」があるのか。
意味は推測できます。
息を吐き出すように指示したのでしょう。
だから完全に意味不明ではありません。
むしろ独特な表現とも言えます。
ただし、
独創的な表現と、コロケーション上の違和感は紙一重です。
この境界を考えさせられる一文でした。
8.「松葉杖に体重を載せる」
別の場面には、
「松葉杖に体重を載せて」(12頁)
という趣旨の表現があります。
これも意味は分かります。
しかし一般的には、
松葉杖に体重をかけて
のほうが自然でしょう。
「載せる」には物体を何かの上に置くイメージがあります。
一方、「体重をかける」は、身体から対象へ荷重することを表す慣用的な組み合わせです。
これも文法的に破綻しているわけではありません。
読者は意味を問題なく復元できる。しかし、慣用的な語の結びつきから少し外れている。
ここまで同種の表現が続くと、一つ一つの誤りというより、作者の文章上の癖として見えてきます。
9.「得意げな声でのたまう」
同様に、
「得意げな声でのたまう」(13頁)
という表現もあります。
「得意げにのたまう」なら自然です。
「得意げな表情」「得意げな顔」もよく使います。
しかし「得意げな声」となると、意味は分かるものの、少し独特な結合になります。
しかも「のたまう」という動詞そのものに、現代では皮肉や揶揄のニュアンスが入りやすい。
そこへさらに「得意げな声で」と発話態度を説明しています。
この作者にはどうやら、
人物が「どのような感じで」発言・行動したのかを、修飾語によって積極的に付け加える
傾向があるように思えます。
一例だけなら推敲上の問題に見えます。
しかし複数の例を並べると、文体的特徴が見えてきます。
10.違和感を感じても、自分の読みが正しいとは限らない
一方で、精読するときに注意しなければならないこともありました。
赤ん坊について、
「バスタオルを解いてやると、束縛の反動で手足をばたつかせはじめる」(14頁)
という趣旨の文章があります。
私は当初、
「バスタオルを解く」は一時的な行為なのに、「ばたつかせはじめる」は継続を表す。ここがぶつかっているのではないか。
と考えました。
しかし、これは必ずしも問題ではありません。
ドアを開けると、犬が吠えはじめた。
と同じで、
一回的な出来事が、継続的な動作を開始させる
ことは普通にあります。
むしろ気になるのは、
「束縛の反動で」
という説明でしょう。
タオルを解いた直後に赤ん坊が手足をばたつかせれば、読者はかなりのところまで因果関係を読み取れます。
「束縛の反動で」と説明すると、読者が読み取れることまで語り手が確定してしまう。
ここで大切なのは、違和感を覚えたからといって、最初に思いついた理由が必ず正しいわけではないということです。
講評する側も、自分の違和感をさらに批評しなければなりません。
「変な文章」でまとめない
今回の精読で最も面白かったのはここです。
文章に引っかかったとき、その原因にはいくつもの種類があります。
* 意味上のカテゴリーがずれている
* 慣用的な語の結びつきから外れている
* 比喩の共通項が十分に示されていない
* 発話の意図と動詞が噛み合っていない
* 心理描写を重ねすぎている
* 前後の情報整理が不足している
* 場面全体の緊張を損なっている
* 読者に任せられる因果関係まで説明している
* あるいは、批評する側が違和感の原因を取り違えている
これらを全部、
「文章がおかしい」
で済ませてしまえば、講評としてはほとんど役に立ちません。
「なぜ私はここで立ち止まったのだろう」
と考える。
そこからが精読なのだと思います。
芥川賞作品だからこそ分かったこと
そしてもう一つ。
今回読んでいるのは芥川賞受賞作品です。
局所的には、これだけ「ん?」と思う表現が見つかります。
だからといって、
「こんな文章なのに芥川賞を取った」
と言いたいわけではありません。
むしろ逆です。
文学作品の価値は、一文一文の減点を合計して決まるものではないのでしょう。
文章には多少の粗さがあっても、人物、構成、文体、テーマ、作品世界、読後に残る感覚など、それを上回るものが作品全体として成立することがある。
局所的完成度の総和=作品全体の完成度ではない。
これは、自分で小説を書くときにも重要なことだと思います。
推敲すれば、粗さはいくらでも見つかります。
「ここは説明的」「ここは削れる」「この表現は不自然」と大量に指摘が出てくるでしょう。
しかし、それを全部直せば名作になるわけではありません。
だから私は、一文について、
「正しいか、間違っているか」
だけを見るのではなく、
「なぜこの文章に引っかかったのか。そして、この粗さは作品全体の中で本当に傷になっているのか」
まで考えてみたい。
文章を読むとは、誤り探しではありません。
違和感を入口にして、言葉がどのように働いているのかを観察することなのだと思います。