比喩は伝わるのに、なぜ引っかかる?――小説の「意味の接続」を考える

比喩は伝わるのに、なぜ引っかかる?――小説の「意味の接続」を考える

記事
学び
小説を読んでいると、「何を書きたいのかは分かる。でも、なぜか引っかかる」という文章に出会うことがあります。

文法的に間違っているわけではない。

意味がまったく分からないわけでもない。

それなのに、文章の座りが悪い。

今回は、そんな文章について考えてみます。

題材は、又吉直樹『劇場』の冒頭です。

「AよりB」と書くと、比較する軸が生まれる


たとえば、

暑さよりも人の匂いが鼻をついてむせた。(006頁)

というような文章があったとします。

書こうとしている光景は分かります。

暑い。それ以上に、人の密集した空間の匂いが強烈だった。

ただ、「暑さ」は温度についての身体感覚で、「匂い」は嗅覚です。

もちろん異なる感覚を比較してはいけないわけではありません。

問題は、「AよりB」と書いた瞬間に、読者が「AとBは何を基準に比較されているのだろう」と無意識に考えることです。

「香水より汗の匂いのほうが強かった」なら、比較軸は分かりやすい。

しかし、「暑さより人の匂い」となると、温覚と嗅覚を「不快感」という上位概念で比較している、と読者側が補う必要があります。

この一手間が、小さな引っかかりになることがあります。

「不快なのに心地よい」は間違いではない


さらに、

一方で、何かに身をゆだねている心地良さもあった。(006頁)

と続いたとします。

先ほどは「鼻をついてむせた」。

今度は「心地よさもあった」。

一見すると矛盾しています。

しかし、この矛盾そのものは問題ではありません。

人間は、不快さと快さを同時に感じることがあります。

むしろ、

Aでありながら、同時にAではない。

こうした両義性には、小説ならではの面白さがあります。

問題になるとすれば、その二つを結ぶものが見えない場合です。

「人混みの匂いは不快だった。しかし、自分で何も決めず人波に身を任せられることは心地よかった」

ということであれば、不快と快は別の軸にあります。

ところが、その中間が省略されると、

不快 → ? → 心地よい

となり、読者は作者の感覚についていくための足場を失います。

矛盾を書いてはいけないのではありません。

矛盾する二つの感覚が、一人の人物の中でなぜ同居しているのか。

その手掛かりが重要なのだと思います。

「偽物のようだった」に至るまでの橋


似た問題は比喩にもあります。

たとえば、

空の青さと、何の形にも見立てることができない雲の比率が、ほとんど偽物のようだった。(006頁)

この文章も、目指している感覚はなんとなく分かります。

現実なのに現実感がない。

書き割りのような空。

あまりにも現実離れした光景。

しかし、「空が青い」「雲がこのくらいある」という視覚情報から、「偽物」という認識までは少し距離があります。

ここでも、

空と雲を見る
↓
何らかの異様さを感じる
↓
偽物のように思える

という真ん中の段階が省略されています。

作者の頭の中ではつながっていても、読者の頭の中で同じようにつながるとは限りません。

私はこういう文章を読むと、「意味が分からない」というより、

感覚に至るまでの回路が一本抜けている

と感じます。

比喩の映像が強すぎることもある

一方で、とても魅力的な比喩なのに、よく考えると論理関係が不思議な文章もあります。

たとえば、意識と肉体のずれを、

「自分が自分の肉体に追いつく」

「自分が自分の肉体を追い越す」

と表現する。

これは映像として非常に分かりやすい。

肉体が先に歩いていて、意識が後ろから追いかけている。

自分の身体なのに、自分の身体ではない。

離人感を表現する比喩として強いと思います。

ところが、そこから、

僕は僕の肉体に追いついたりもしたので、あるいは全ての行動が自分の意志によるものだったのかもしれない。(007頁)

と因果関係を作ると、少し難しくなります。

「追いつく」という空間的イメージと、「自分の意志によって行動する」という因果関係が、本当に対応しているのか。

むしろ意志が行動に先行するなら、

意識が肉体を追い越す

ほうが「自分の意志で身体を動かす」という意味には近いかもしれません。

ここでは比喩が悪いのではありません。

むしろ比喩は魅力的です。

ただし、

比喩として成立することと、その比喩を使った論理が成立することは別
なのだと思います。

文体そのものが人物の状態を表すこともある

ここまで書くと、「では、分かりやすく論理的に書けばいいのか」と思われるかもしれません。

しかし、小説はそこまで単純ではありません。

人物が自分の感覚をうまく把握できない場面では、文章そのものを不安定にする方法があります。

一文を長くする。

「けど」「が」「ながら」で認識を反転させる。

「かもしれない」で自分の判断を留保する。

ある感覚を書いている途中で、その感覚について分析する別の自分が割り込んでくる。

すると、

感じている自分

と、

感じている自分を観察している自分

が文章の中に同時に現れます。

これは離人感のような状態を描くうえで効果的です。

つまり、

内容では「意識と肉体のずれ」を描き、文体では「認識と認識のずれ」を作る。

ここまでできれば、単なる読みにくさではなく、文体そのものが作品の内容を担い始めます。

「分からなさ」にも二種類ある

今回考えていて、私は小説の「分からなさ」には少なくとも二種類あると思いました。

一つは、人物の混乱や矛盾を読者にも体験させるための、意図された分からなさ。

もう一つは、作者の中ではつながっている感覚が十分に文章化されず、読者にだけ接続作業を任せてしまった分からなさです。

この二つは似ています。

だから判断が難しい。

文章の違和感を見つけたとき、「分かりにくいから直す」と即断するのではなく、

この分かりにくさは、作品に必要なものなのか。

それとも、作者の頭の中にある一段階が文章から抜け落ちているだけなのか。

そこまで考えてみる。

小説を読むときにも、書くときにも、この区別はかなり役に立つのではないかと思います。


小説を書いていて、

「意味は通じる。でも、なぜか文章がしっくりこない」

「比喩として成立しているのか、自分では判断できない」

「分かりにくさが作品の味なのか、単なる説明不足なのか分からない」

そんな箇所があれば、第三者の視点を入れることで見えてくるものがあります。

ココナラでは、小説を実際に読みながら、文章の違和感や比喩、視点、文体、読者にどう伝わるかを具体的にお伝えしています。

作品を「正しい文章」に直すのではなく、作者が書こうとしているものを大切にしながら、一緒に文章を考えます。

気になる方は、プロフィールのサービスをご覧ください。


サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す