「読みにくい=文学的」なのか――変則的な読点と語彙から考える小説の可読性

「読みにくい=文学的」なのか――変則的な読点と語彙から考える小説の可読性

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小説を読んでいると、「これは意図的に読みにくくしているのだろう」と感じる文章に出会うことがあります。

たとえば、次のような文章です。

初瀬の途切れとぎれの意識は、夢として回想される恵利の言葉と目のまえの、男の声に耳をかたむける現実の世界とを行き来している。(『鳥の夢の場合』004頁)

この文章が表現しようとしていることは、ある程度わかります。

登場人物の意識が途切れかけている。夢の中では過去の人物の言葉がよみがえり、現実では目の前にいる男の声が聞こえている。

そして実際、その後の文章でも、現在の男との会話から自分の身体感覚へ移り、さらに過去の記憶へと、意識がほとんど継ぎ目なく移動していきます。

つまり、夢と現実をシームレスに行き来する意識を、文章そのものによって再現しようとしている、と読むことはできます。

しかし、ここで一つ疑問が生まれます。

表現上の意図があることと、その表現が十分に機能していることは同じなのでしょうか。

「目のまえの、男」に読点は必要なのか


先ほどの文章で、私は特に、

「目のまえの、男の声」

という部分に引っかかりました。

通常なら、

「目のまえの男の声」

と書くところでしょう。

ところが「目のまえの、男」と途中で切断する。

これを、途切れかけた意識を再現するための読点だと解釈することはできます。

しかし読者の側からすると、「初瀬の意識が途切れている」と感じるより先に、

「どうしてここに読点があるのだろう?」

と考えてしまう可能性があります。

すると読者の意識は、登場人物から文章技法そのものへ向かいます。

これは重要な違いだと思います。

 「男の、指が……揃う、右手」


別の箇所では、次のような文章が出てきます。

声がして目をあけた。差し出されていたいくつもの物件、文字と写真がいっせいに視界に入り、焦点がおのずとそれらを差し出してきている男の、指がきれいに並び揃う、右手にあつまっていた。(同書006‐007頁)

ここでも、

「男の、」

「並び揃う、右手」

と、一般的な文章なら切らないところに読点があります。

これにも意図を見いだすことはできます。

視界に物件が入る。

そこから男へ。

さらに指へ。

最後に右手へ。

人間が対象を一度に認識するのではなく、視線が断片的に対象を捉えていく過程を、読点によって再現しているのかもしれません。

「あつまっていた」を漢字ではなく平仮名にしていることにも、知的に意味を確定させるより、ぼんやりした知覚へ近づける意図を読むことはできるでしょう。

ただし、この文章では内容そのものによって、

「視界に入る→焦点が移る→右手に集まる」

という視線の移動がすでに描かれています。

そこへさらに変則的な読点を重ねる必要があるのか。

私には、視線の断続性よりも「変わった読点」のほうが前景化しているように感じられました。

「口の中が湿っていた」という違和感


さらに、

「もちろん」口の中が湿っていた。「そこいいですね」(同書007頁)

という文章があります。

これも面白い。

人間の口の中が湿っていること自体は、ごく普通の状態です。

小説で身体感覚としてわざわざ書かれるのは、むしろ、

「口の中が乾いていた」

のような表現でしょう。

緊張や不安によって口が乾く。これは読者にも馴染みのある表現です。

ところが、ここでは反対に「湿っていた」と書く。

文法的には何もおかしくありません。

しかし読者が無意識に予測している表現から少し外れます。

普通の状態をわざわざ言葉にすることで、かえってその状態が有標化される。

一箇所だけなら、これは面白い異化として機能するかもしれません。

しかし、こうした小さな予測の裏切りが何度も続くとどうでしょう。

読者は、

「これは何を意味しているのだろう」

「なぜこの読点なのだろう」

「なぜこの言葉なのだろう」

と、そのたびに立ち止まることになります。

 「バランスを見る」「この塩梅」


語彙にも同じような傾向を感じました。

片方を連続で言いすぎて変にならないようバランスをみながら分けていった。(同書007頁)

という文章があります。

「バランスを見る」は誤用ではありません。

ただ、この場面で実際に行われているのは、一方が続きすぎないように、その都度程度を調節することです。

私なら、

「加減しながら分けていった」

などと書きます。

さらに、

偏らないで、けれども規則的にみえないようにするこの塩梅はちょうど、学校の試験で……(省略)……(同書007頁)

ともあります。

「塩梅」も間違った言葉ではありません。

しかし、ここでも私なら「加減」を選びます。

興味深いのは、一つ一つを取り出すと、必ずしも誤用ではないことです。

読点にも説明できる意図がある。

「湿っていた」にも意味を見いだせる。

「バランスを見る」も「塩梅」も辞書的には成立する。

それなのに、私は読みながら何度も引っかかりました。

一度の裏切りは刺激になる。裏切りが続けば負荷になる


ここに、文学的な文章を考えるうえで重要な問題があるように思います。

読者は文章を読むとき、次に来る言葉を完全な白紙の状態で待っているわけではありません。

「男の」と来れば、そのまま名詞が続くだろう。

「口の中が」と来れば、場面によっては「乾く」という表現が来るかもしれない。

文章には、そうした小さな予測があります。

文学は、ときにその予測を裏切ります。

それによって見慣れたものを見慣れないものとして提示する。

いわゆる「異化」の効果です。

私は、そうした文章そのものを否定したいわけではありません。

問題は密度です。

読点をずらす。

漢字を平仮名にする。

普通なら選ばない語を選ぶ。

読者が予測する表現から半歩外れる。

一つなら刺激になります。

しかし、それが高密度で続けば、読者は物語を読むと同時に、文章を絶えず再解析しなければならなくなります。

すると、

登場人物の混濁した意識を体験するための負荷

だったはずのものが、

作者の文章を解読するための負荷

へ変わってしまう。

私は今回の文章を読みながら、その境界について考えました。

読みにくい文章だから文学的なのではない。

もちろん、読みやすい文章だけが優れているわけでもない。

大切なのは、通常の文章から外すことで、通常の文章では得られなかった何が生まれたのか、ということではないでしょうか。

読みにくさに理由があることと、その読みにくさが表現として成功していることは別です。

変則的な表現に出会ったとき、私はこれから、

「なぜこんな書き方をしたのか」

だけではなく、

「その書き方によって、何が増えたのか」

まで考えてみたいと思います。

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