小説には「王道」と呼ばれる物語の型があります。
たとえば、主人公がさまざまな困難を経験し、それを乗り越えることで成長していく。
NHKの朝ドラなどを見ていても、こうした成長物語は非常に分かりやすいものです。
物語にはいくつかの基本的なパターンがあり、「シェイクスピアがほとんど書き尽くした」といった言い方をされることもあります。
しかし私は、小説が必ず成長物語でなければならないとは思いません。
主人公が成長しない小説があってもいい。
何かを克服しないまま終わってもいい。
読者によって受け取り方が違ってもいい。
重要なのは、その作品独自の世界が立ち上がり、その世界の中で整合性が取れていることではないでしょうか。
「成長が見えない」は、本当に欠点なのか
小説の感想を依頼すると、
「主人公の成長がもう少し欲しい」
「最後に何か変化が見えるといい」
といった指摘を受けることがあります。
もちろん、それが作品の狙いと一致しているなら有益な指摘でしょう。
しかし、そもそも作者が成長物語を書こうとしていないのならどうでしょうか。
主人公が変われないことを描く小説かもしれない。
過去から抜け出せない人間を描いているのかもしれない。
あるいは、最後まで答えが出ないこと自体が作品の核なのかもしれません。
そこに外部から「成長」という型を持ち込んでしまえば、作品そのものを別の小説へ作り替えることにもなりかねません。
私は、読後感については人それぞれでいいと思っています。
「救いがなかった」
「もっと主人公に変化してほしかった」
「私はこの終わり方が好きだった」
どれも一人の読者が受け取った感想として成立しています。
しかし、小説の講評を依頼するとき、書き手が本当に知りたいのは、それとは少し違うのではないでしょうか。
作品内部の整合性が取れているか。
ここを第三者に見てもらいたいのです。
作者には見えなくなるものがある
極端な例を考えてみます。
ある人物が登場します。
年齢は明記されていません。
描写を読んでいると、どうも10代の少年に思える。
ところが途中で、その人物が何の説明もなくタバコを吸い始めます。
読者は、
「えっ、この人は20歳以上だったの?」
と思うかもしれません。
あるいは、
「10代なのにタバコを吸っている不良少年なのか?」
と解釈するかもしれません。
もちろん、どちらの設定でも小説としては成立します。
問題は、作者がどちらを書こうとしているのかが作品から読み取れない場合です。
成人男性として描いているのであれば、なぜ読者に10代という印象を与えてしまったのか。
その原因を探す必要があります。
逆に、10代で喫煙している人物として描きたいのであれば、それが人物造形として読み取れるよう、周辺の描写を補う必要があるかもしれません。
ここで重要なのは、
「私はこの人物が嫌いだった」
「タバコを吸わない人物にしたほうが好感が持てる」
という感想とは、問題の種類が違うということです。
作者の意図と、作品から実際に読者が受け取る情報との間にズレが生じている。
書き手は、こういうところこそ講評で指摘してほしいのではないか、と思っています。
作者は自分の小説を「初見」で読めない
なぜ第三者の目が必要なのか。
理由は単純です。
作者は、自分の小説を初見で読むことができないからです。
先ほどの例なら、作者の頭の中では、
「この人物は10代で、タバコを吸っている不良少年だ」
という設定が最初から完成しています。
そのため、作品内の描写が多少不足していても、作者自身は自然に意味を補完してしまいます。
文章に書かれていない情報まで知っているからです。
何度も原稿を読み返せば、その傾向はさらに強くなるでしょう。
伏線も知っている。
人物の過去も知っている。
結末も知っている。
この台詞が後のどこにつながるのかも知っている。
作者にとっては当然理解できる文章でも、初めて読む人には情報が一つ足りないかもしれません。
逆に、作者が「ここは説明しないと伝わらない」と心配して詳しく書いているところが、読者にはすでに十分伝わっていて、説明過多になっている場合もあります。
このズレは、自分一人ではなかなか発見できません。
私が講評サービスで提供したいもの
だから私は、小説の講評をするとき、
「面白かったです」
「主人公にもっと成長が欲しいです」
「最後に救いがあるとよかったです」
といった読後感だけをお渡しするわけではありません。
お示ししたいのは、
作品が読者の頭の中で、作者の想定したように組み上がっているかどうかです。
人物像に矛盾はないか。
時間関係は自然につながっているか。
ある場面で提示した情報が、後の場面を読むために十分に機能しているか。
作者だけが知っている設定によって、文章の空白を無意識に補っていないか。
逆に、読者がすでに理解できることを説明しすぎていないか。
そして何より、初見の読者が途中で、
「なぜ、この人物はこんな行動をしているんだろう」
「さっきまでの話とつながらない」
「作者は何を書こうとしているんだろう」
と、作者の意図しないところで立ち止まってしまわないか。
こうした部分を発見することに、第三者へ講評をお願いする大きな意味があるのではないかと思っています。
小説は必ずしも成長物語である必要はありません。
読後感を一つに収斂させる必要もありません。
むしろ、同じ作品を読んで違う感想を持つところに、小説のおもしろさがあります。
だからこそ、
「私ならこういう物語にする」ではなく、「あなたが作ろうとした物語は、作品の中できちんと成立しているか」
そこを見ていきたい。
作者自身には見えなくなった穴を見つける。
私にとって、小説の講評の一番大きな意味は、そこにあります。
私のご提供するサービスはこちらです。作品の整合性は取れているか、できるだけ読み取ろうと努めます。