今村夏子さんの『むらさきのスカートの女』を読みました。
芥川賞受賞作ということで読み始めましたが、率直な読後感としては、「思っていたより普通だった」というものでした。
もちろん、これは作品の価値が低いという意味ではありません。
最近、いくつかの受賞作を続けて読んでいるのですが、「受賞作なのだから、どの文章にも高度な技巧が隠されているはずだ」と構えて読む必要はないのではないか、と思うようになりました。
むしろ大切なのは、
「その作品が何を特徴として最後までやり続けているのか」
を見ることなのかもしれません。
■なぜ「彼女」ではなく「むらさきのスカートの女」なのか
今回、私が特に面白いと思ったのは、人物の呼び方でした。
作中では「むらさきのスカートの女」という呼称が何度も繰り返されます。
普通なら、一度人物を登場させれば、その後は「彼女」「その女」などと代名詞で受けてもいいはずです。
ところが、この作品では「むらさきのスカートの女」という長い呼称が繰り返されます。
その反復によって、文章に独特のリズムが生まれています。
短い代名詞で処理せず、同じ言葉を何度も置くことで、「むらさきのスカートの女」という言葉そのものが、一種の拍子のように文章の中へ現れるのです。
■呼び方によって「人」が「観察対象」になる
この反復には、もう一つ効果があるように思いました。
「彼女」と呼べば、対象との距離は少し縮まります。
しかし、「むらさきのスカートの女」と呼び続けることで、彼女はいつまでも名前を持つ一人の人間ではなく、「観察される対象」として存在し続けます。
そして彼女を観察しているのが、語り手である「黄色いカーディガンの女」です。
最初は、
見る人=黄色いカーディガンの女
見られる人=むらさきのスカートの女
という関係に見えます。
ところが読み進めていくと、むらさきのスカートの女をここまで執拗に観察している語り手のほうも、かなり奇妙な存在に見えてきます。
見る側と見られる側。
正常に見える側と奇妙に見える側。
その境界が、少しずつ曖昧になっていくのです。
■二人は本当に別の存在なのか
さらに深読みするなら、こんな読み方もできるのではないかと思いました。
むらさきのスカートの女と黄色いカーディガンの女は、本当にまったく別の存在なのだろうか。
もちろん、「実は同一人物だった」という謎解きとして断定する必要はありません。
むしろ興味深いのは、二人が次第に鏡像のように見えてくることです。
語り手は、むらさきのスカートの女を見ています。
しかし、相手を見続け、行動を追い、強烈に意識することによって、語り手自身の存在もまた浮かび上がってきます。
他人を見ていたはずなのに、その視線によって自分自身が見えてくる。
そんな構造として読むこともできるように思いました。
■受賞作だから「全部すごい」と考えなくてもいい
今回この作品を読んで、もう一つ感じたことがあります。
受賞作を読むと、
「どこがすごいんだろう」
「何か高度な技法を見つけなくては」
と考えすぎてしまうことがあります。
しかし、読んでみて「ここは普通だな」と感じるところがあってもいい。
そのうえで、
「では、この作品にしかないものは何だろう」
と考えてみる。
私にとって『むらさきのスカートの女』では、それが「むらさきのスカートの女」という呼称の反復でした。
ほんの一つの言葉の選択でも、それを作品全体で徹底すれば、文章のリズムを作り、人物との距離を作り、さらには「見る者/見られる者」という作品の構造にまで関わってくる。
小説を読むとき、派手な比喩や技巧だけを見る必要はないのかもしれません。
作者が何を繰り返し、何をあえて変えなかったのか。
そこにも、小説を読み解くための手がかりがあるように思いました。