又吉直樹の小説(『人間』)を読んでいると、ときどき不思議な疲れを感じる。
文章が難解だからではない。むしろ、一文一文の意味はよく分かる。
登場人物の心理も丁寧に説明されている。
それなのに、読み進めていると少しずつ負荷が蓄積していく。
今回、文章を細かく読みながら、その理由の一つが見えてきた。
感情がなかなか着地しないのである。
悲しければ悲しいまま、恥ずかしければ恥ずかしいまま、その感情に留まることが少ない。
感情が生まれると、主人公はすぐにその感情を観察する。
そして、その感情が本物なのか、自分に酔っているだけではないのか、と疑い始める。
つまり、
感情 → 自意識 → 自意識への批評
という運動が繰り返される。
これが又吉作品の鋭さであると同時に、読者を疲れさせる原因にもなっているのではないか。
苦しんでいる自分まで疑う
象徴的なのが、主人公が創作上の苦しみについて考える場面である。
絵が描けなくなる。
そこで普通なら、「描けなくて苦しい」という感情を描くことができる。
しかし主人公はそこで終わらない。
描けない自分について考え、苦しんでいる自分について考え、さらに、そんな自分が「芸術家らしい苦悩」を演じているだけではないかと疑う。
そして最後には、
「いっぱしの芸術家の苦悩を気どっているようで」(57頁)
と、自分自身を冷笑するところまで進んでいく。
ここでは感情が何重にも折り返されている。
描けない。
苦しい。
苦しんでいる自分を意識する。
その苦しみに酔っているのではないかと疑う。
そんな自分を情けなく思う。
主人公は、自分自身の感情に安心して身を預けることができない。
自分の中に感情が生じるたびに、もう一人の自分が現れて、
「それ、本当にお前の感情なのか?」
と問いかけてくる。
この自己監視の強さこそ、又吉作品に特徴的な自意識の描き方なのだと思う。
他人の感情まで「本物か」と疑う
この視線は自分自身だけに向けられるものではない。
主人公は他人についても、その人が表面上示している感情をそのまま受け取らない。
ある人物が芸術家に強く惹かれているように見えても、本当にその人物を尊敬しているのか、それとも「注目される人のそばにいる」(18頁)自分に酔っているだけなのか、と疑う。
また、本から影響を受けて自分なりの考えを語る人物に対しても、その思想が本人の内側から生まれたものなのか、それとも読んだものの表面をそのまま取り込んだだけなのか、と疑う。
つまり主人公の視線には、一貫して、
「その感情、本当にあなた自身のものですか?」
という問いがある。
これは鋭い。
人間はしばしば、自分でも気づかないまま他人の価値観を借りる。
誰かを尊敬していると思っていても、実は「その人と親しい自分」に価値を感じていることもある。
又吉は、そうした感情の裏側にある自意識を掘り出していく。
ただし、それが何度も続くと別の問題が生じる。
読者まで感情に浸れなくなる
小説を読むとき、読者は登場人物の感情を一時的に引き受ける。
悲しければ一緒に悲しみ、恥ずかしければ一緒に居心地の悪さを感じる。
ところが、感情が生まれるたびに主人公自身がそれを批評すると、読者も感情から引き離される。
悲しい。
しかし、本当に悲しいのか。
苦しい。
しかし、苦しんでいる自分に酔っているだけではないか。
誰かを尊敬している。
しかし、その人を尊敬している自分を誇っているだけではないか。
この運動が繰り返される。
すると、感情が発生しても、その場所に腰を下ろすことができない。
これが、私が感じていた読書上の「疲れ」の正体の一つなのではないかと思った。
読者まで主人公と一緒になって、人物の感情を絶えず検査することになるからである。
「説明しすぎる」という問題ともつながっている
これは、文章を読みながら以前から感じていた別の特徴ともつながっている。
又吉の文章には、ときどき、描写によってすでに伝わっている意味を、その後でもう一度言葉にするところがある。
たとえば、相手に気を遣って本心とは違う返答をした場面で、それが「嘘」だったことまで説明する。
あるいは、身体の内部へ浸透するような声を描いたあと、それを「強い」と意味づける。
描写によって読者が発見できる意味を、語り手がもう一度回収するのである。
この特徴と、自意識をどこまでも分析する姿勢は、実は同じところから生まれているのかもしれない。
意味を曖昧なまま残しておけない。
感情についても同じだ。
悲しみを悲しみのまま置いておかない。
「なぜ悲しいのか」「その悲しみは本物なのか」「悲しんでいる自分に酔っていないか」と分析する。
又吉の文章は、感情そのものよりも、感情について考えている意識へ向かっていく。
ところが、説明しない又吉はとても鋭い
だからこそ、今回読んでいて強く印象に残った一文がある。
芸術家たちの世界に触れた主人公が、最後に、
「お気に入りのTシャツを着てきたことが、恥ずかしかった。」(29頁)
と思う場面である。
ここでは説明しない。
「自分は芸術というものを表面的に捉えていた」
とも、
「芸術家に会うために少し格好をつけてきた自分の自意識が恥ずかしかった」
とも書かない。
すべてを「お気に入りのTシャツ」に背負わせて終わる。
だから強い。
抽象的な自己嫌悪が、突然一枚のTシャツという具体物に着地する。
読者は、そのTシャツがなぜ恥ずかしくなったのかを自分で考えることができる。
ここでは、
感情 → 説明 → 自己分析 → 自己批評
といういつもの運動が止まっている。
感情が初めて、一つの物の上に着地している。
修学旅行のサングラスも同じだった
別の場面では、本から得た思想をそのまま自分のもののように語る人物を見て、主人公はその痛々しさを、修学旅行先で買ったサングラスをかけて悪ぶる中学生になぞらえる。
ここでも比喩が具体的である。
「他人の思想を十分に咀嚼せず自己表現に利用している」
などと抽象的に説明するより、
修学旅行先で買ったサングラス
という物を一つ置いたほうが、その痛々しさが一瞬で見える。
しかも中学生なら、そんな背伸びも微笑ましい。
ところが主人公は、目の前の人物については同じように愛することができない。
そこまで含めて、主人公の複雑な感情が立ち上がる。
又吉の文章が鋭くなるのは、自意識を深く説明した瞬間だけではない。
むしろ、
抽象的な自意識を、俗っぽい具体物へ変換した瞬間
に強烈な切れ味が生まれることがある。
Tシャツ。
修学旅行のサングラス。
どちらも、それ自体はまったく「文学的」な物ではない。
だからこそ生身の人間が見える。
自意識を掘れば掘るほど文学になるわけではない
又吉作品にとって、自意識は重要な主題なのだと思う。
自分の感情を疑う。
他人の感情を疑う。
その疑っている自分自身まで疑う。
その執拗さからしか生まれない文章が確かにある。
しかし同時に、そこには危険もある。
自意識を一段深く掘れば、それだけ人物が深くなるとは限らない。
自己分析が繰り返されれば、最初は鋭かった心理描写が一つの定型に見えてくることもある。
そして何より、感情が生じるたびに分析してしまえば、人物も読者もその感情に留まることができない。
ときには悲しみを悲しみのまま置いておく。
恥ずかしさをTシャツ一枚に預けておく。
読者が意味を発見するまで待つ。
そういう「書かない時間」が、小説には必要なのかもしれない。
今回の読書で私が最も強く感じたのは、文章を削ることの意味だった。
説明を削るとは、単に短くすることではない。
感情に着地点を与えることであり、読者がその場所にしばらく留まれるようにすることでもある。
又吉の文章を読んでいて疲れる瞬間と、突然鮮やかに感じる瞬間。
その違いは、案外ここにあるのかもしれない。
文章を削るべきか、あえて残すべきか――その判断に迷っていませんか。
あなたの小説を一文ずつ読み、説明・描写・心理の「効いているところ/重いところ」を具体的に講評します。
自分では気づきにくい文章の癖を知りたい方は、ぜひ小説講評サービスをご利用ください。