小説を読んでいると、「意味は分かる。しかし、なぜこんなに回りくどく書くのだろう」と感じる文章に出会うことがある。
又吉直樹の作品を読んでいて、私は何度かそんな感覚を覚えた。
たとえば、次のような文章である。
顔を出した仲野が笑っていなかったので、自分も笑っていなければよかった と一瞬後悔したが、すぐに自分もまた笑っていなかったことに気づいた。(13頁)
この文章を、起こった出来事だけに還元すると驚くほど単純である。
中野は笑っていなかった。自分も笑っていなかった。
それだけだ。
ところが文章の中では、
中野が笑っていない
→ 自分は笑っていたのではないか
→ 笑っていなければよかった
→ 後悔する
→ しかし自分も笑っていなかったと気づく
という経路をたどる。
最初と最後で、事実関係はほとんど変わっていない。
いわば、情報量は増えていないのに、思考だけが一周している。
しかし、この「無駄な一周」こそが、この文章の目的なのかもしれない。
存在しなかった「笑顔」を後悔する
興味深いのは、主人公が実際には笑っていなかったことである。
それなのに一瞬、
「自分も笑っていなければよかった」
と後悔する。
つまり主人公は、実際には存在しなかった自分の行為を想定し、それについて後悔し、その直後に後悔する必要がなかったことに気づく。
外界では何も起きていない。
動いているのは主人公の認識だけである。
通常なら、
「仲野は笑っていなかった。自分も笑っていなかった」
で済む。
しかし、それではこの人物の自意識は表現できない。
相手の表情を見た瞬間、自分がどんな顔をしていたのかが気になる。まず後悔する。そして、自分も笑っていなかったことに気づく。
出来事を書くのではなく、出来事を受け取った人間の認知の迂回を書く。
そう考えると、この回りくどさにも意味が出てくる。
「共感している気配こそ見せなかったが」に感じた違和感
別の文章でも引っかかった。
先輩は共感している気配こそ見せなかったが、反論もせず、何を考えているのかわからなかった。(8頁)
「共感」と「反論」を一本の数直線に置いてみる。
反対(−)←――0――→共感(+)
「共感している気配こそ見せなかった」で、+側ではないことが示される。
しかし「反論もせず」と続くので、−側でもない。
ここまでは分かる。
つまり0付近にいる。
ところが、
「何を考えているのかわからなかった」
と続く。
これは少し違う。
0にいるのではない。
そもそも+なのか0なのか−なのか、座標そのものを決められない状態である。
特に「こそ〜が」という形は、「Aではない。しかしBではある」という対照を予告する。
そのため、
「共感している気配は見せなかった。反論もしなかった。何を考えているのかわからなかった」
なら、観察を積み重ねた結果として「分からない」に到達する。
しかし「共感している気配こそ見せなかったが」とすると、文章が一度対照関係を作り、その後で「分からない」とその評価軸自体を手放してしまう。
ここにも、思考が素直に目的地へ向かわない感覚がある。
「単純さが笑っている」とは誰が笑っているのか
さらに、こんな文章もあった。
自分の誕生日に見る夢としては、妙に暗示めいていて、その平凡さにもあきれてしまう。便所に行きたいときに、そのまま便所に行く夢を見てしまうような単純さが、自分の苦しみを陳腐に解体して笑っているようだった。(3-4頁)
最初に面白いのは、
「暗示めいている」
「平凡」
という二つの方向である。
暗示めいているとは、何か重大な意味が隠されているように感じることだ。
ところが、その夢はあまりにも平凡である。
意味がありそうだ。
しかし、あまりにも出来すぎていて陳腐だ。
この衝突自体は面白い。
ただ、その後、
「平凡」
「単純さ」
「陳腐」
と似た方向の評価が重なっていく。
さらに気になったのが、
自分の苦しみを陳腐に解体して笑っているようだった
である。
誰が笑っているのだろう。
文法上は「単純さ」が笑っていることになる。
しかし「単純さ」は抽象概念である。
夢の単純さが主人公を嘲笑している、と擬人化しているのだろう。
ところが一段深く考えると、夢そのものには「お前の苦しみなど陳腐だ」と判断する能力はない。
夢を見て、
「平凡だ」
「単純だ」
「自分の苦しみは陳腐だ」
と意味づけているのは主人公自身である。
だとすれば、
夢に笑われているように感じている主人公自身が、実は自分の苦しみを笑っている。
そんな読み方もできる。
説明を重ねている文章なのに、「誰が笑っているのか」と考え始めるとかえって分からなくなる。
この奇妙さも印象に残った。
「床を軋ませる足音」は何が床を軋ませているのか
さらに細かなところでは、
建物の床を軋ませる誰かの足音が近づき(13頁)
という表現にも引っかかった。
意味は分かる。
しかし、厳密には「足音」が床を軋ませているのだろうか。
床を軋ませるのは、人間の足や体重である。その結果として床が軋み、足音が聞こえる。
つまり、
誰かが歩く
→ 床が軋む
→ 足音が聞こえる
という因果関係がある。
ところが「床を軋ませる足音」とすると、結果であるはずの「足音」が床を軋ませる原因の位置に入ってくる。
これも意味が通じないわけではない。
ただ、文章を細かく追っていくと、一瞬立ち止まってしまう。
回りくどさは欠点なのか
ここまで並べると、又吉直樹の文章を単純に「回りくどい文章」と批判しているように見えるかもしれない。
しかし、私はそう言い切れないと思っている。
特に、
自分も笑っていなければよかったと一瞬後悔したが、すぐに自分もまた笑っていなかったことに気づいた
という文章は、簡潔に直してしまえば確実に失われるものがある。
「仲野も自分も笑っていなかった」
では、事実しか残らない。
原文にあるのは、事実ではなく、人間が一瞬のうちに余計なことを考えてしまう過程である。
自分は笑っていただろうか。
まずかったのではないか。
いや、そもそも笑っていなかった。
外界についての新しい情報は増えない。
しかし、その人間がどのように世界を処理しているのかについての情報は増えている。
ここに、回りくどさの効用があるのだと思う。
一方で、それが繰り返されれば、読者は疲れる。
人物の自意識を表現するための「認知の迂回」が効果になるのか、それとも単なる冗長さになるのか。
その境界はかなり微妙である。
今回読んでいて私が面白いと思ったのは、まさにそこだった。
情報量を増やさず、認知の迂回だけを増やす文章。
簡潔な文章だけが優れているわけではない。
しかし、回りくどければ心理が深くなるわけでもない。
小説を書く側から考えるなら、重要なのは「この迂回によって何が増えたのか」と自分に問いかけることなのだと思う。
事実は何も増えていない。
それでも人物の見え方が増えているなら、その回り道には意味がある。
何も増えていないのなら――その一周は、削ってもいいのかもしれない。
私は小説感想サービスを提案しています。よろしければ覗いてみてくださいね。