小説を読んでいると、「意味はよく分かる。しかし、なぜここまで説明するのだろう」と感じる文章に出会うことがあります。
今回、又吉直樹の作品『人間』を読みながら、私は何度もそんな感覚を覚えました。
決して意味が分からないわけではありません。むしろ逆です。
意味が分かりすぎる。
描写によってすでに伝わっていることを、別の言葉でもう一度説明する。そのため、読者が自分で意味を発見する余地が少なくなっているように感じたのです。
「平凡」「単純」「陳腐」はどこまで必要なのか
たとえば、誕生日に見た夢について、こんな文章があります。
「自分の誕生日に見る夢としては、妙に暗示めいていて、その平凡さにもあきれてしまう。便所に行きたい時に、そのまま便所に行く夢を見てしまうような単純さが、自分の苦しみを陳腐に解体して笑っているようだった。(4頁)
面白いのは「暗示めいている」と「平凡」が衝突しているところです。
何か重要な意味がありそうなのに、あまりにも出来すぎていて平凡でもある。
ところが、その後に「単純さ」「陳腐」と、同じ方向の言葉が続きます。
平凡→単純→陳腐
と、少しずつ言葉を変えながら、「結局ありふれている」という意味が重ねられている。
さらに「単純さが自分の苦しみを笑っている」という擬人化まで加わります。
ここまで来ると、読者は意味を受け取るというより、意味を何度も確認させられているようにも感じます。
「沁み込む」のあとに「強い」と言う必要はあるのか
別の箇所には、
「静かだけど身体の内部に沁み込んでいくような強い声だった」(14頁)
という表現があります。
ここで気になったのは「強い」です。
「強い声」だけでは、音量が大きいのか、野太いのか、張りがあるのか、意志の強さを感じさせるのか、判然としません。
それ以上に興味深いのが、
「身体の内部に沁み込んでいく」
という比喩がすでに置かれていることです。
「沁み込む」は、静かに徐々に浸透していくイメージです。一方、「強い」は圧力や激しさを感じさせます。
おそらくここで言いたいのは、声量ではなく「聞き手に及ぼす作用が強い」ということでしょう。
しかし、それなら「身体の内部に沁み込んでいく」という表現だけでも、その作用はかなり伝わっています。
そこへ「強い」と付け加えることで、
比喩で見せたものを、抽象語でもう一度説明している
ように感じました。
「強烈」は強い。しかし像は鮮明になったか
似た例があります。
「白いTシャツが強烈に光を反射させていた」(14頁)
物理的にはおかしくありません。
白く見えるという現象自体、光の反射によって生じています。
しかし、小説の人物が経験しているのは物理現象そのものではなく、
「白いTシャツが眩しかった」
という知覚でしょう。
それを「強烈に光を反射させていた」と書くと、日常的な知覚が物理現象の説明へ翻訳されます。
さらに「強烈」という言葉は程度を非常に強く指定します。
ところが、強度が上がったことと、像の解像度が上がったことは同じではありません。
「強烈」という言葉によって「ものすごく強い」ということは分かる。しかし、具体的にどう見えたのかは、それほど鮮明になっていない。
これは文章を書くときに注意したいところです。
強い形容詞を使えば、必ず描写も強くなるわけではない。
「嘘をついた」と説明しなくても読者には分かる
さらに分かりやすい例があります。
「管理人が出してくれたお茶は梅の香りがした。「しょっぱい?」と聞かれた。しょっぱかったけど、おいしいと嘘をついた。(15頁)
私は最後の「嘘をついた」がなくても成立すると思いました。
たとえば、
「しょっぱかったけど、美味しいと言った。」
ここで止める。
すると読者は、
「本当は美味しくなかったんだな」
「管理人に気を遣ったのだろう」
と自分で読み取ることができます。
ところが「嘘をついた」と書けば、
「今の発言は嘘ですよ」
と語り手自身が答え合わせをすることになります。
前者には少し可笑しみが残ります。
後者では意味が確定します。
ほんの数文字ですが、ここには大きな違いがあります。
読者に判断を渡すのか、語り手が判断を回収するのか。
「なぜか心の底に鈍い痛みを感じた」
さらに興味深かったのが、
笑みを浮かべて、あたりまえのように答える管理人の声を聞きながら、画家という生きものが実際に存在することを不思議に思うと同時に、なぜか心の底に鈍い痛みを感じた。(15頁)
という一文です。
前半は面白い。
管理人は画家の存在について「当たり前のように」話します。
しかし主人公にとっては、
「画家という生き物」が本当に存在する
ということ自体が不思議なのです。
管理人にとっての日常と、主人公にとっての非日常。
この落差だけでも人物の感覚が見えてきます。
ところが、そこから突然、
「心の底に鈍い痛み」
へ移ります。
「不思議」や「戸惑い」から「痛み」まではかなり距離があります。
痛みという以上、画家という存在が主人公自身の何かに触れたはずです。
「自分も何者かになりたかった」
「自分にはそういう生き方ができない」
といった背景があれば接続できます。
しかし、それがまだ提示されていない段階では、「なぜか」が二つの感情を橋渡ししているようにも見えます。
もちろん、「なぜか」は人物自身にも説明できない感情を描くための有効な言葉です。
ただし、読者にも原因を推測できないのであれば、
感情の深さは指定されているのに、その深さへ到達する過程が描かれていない
という状態にもなります。
「心酔」から「自惚れ」へ
又吉作品らしさを強く感じたのは、次の文章です。
仲野は飯島さんに心酔しているようにも見えたが、周囲から注目される人のそばにいることに自惚れているようにも見えた。(18頁)
これは又吉作品でしばしば描かれる、自意識への疑いにつながっています。
単純に、
「この人が好きだ」
では終わらない。
本当にこの人が好きなのか。
それとも、この人を好きでいる自分が好きなのか。
感情が自分自身へ折り返してくる。
これは又吉文学の魅力の一つだと私は思います。
ただ、ここでも「自惚れている」という言葉によって、心理分析がかなり完成された状態で読者へ渡されています。
仲野の具体的な仕草や視線だけを描けば、
「この男は飯島さんに心酔しているだけではないのではないか」
と読者自身が発見することもできるでしょう。
ところが「自惚れている」と書けば、その解釈まで語り手が行ってくれます。
描写のあとに「解釈」を置く文章
ここまで読んで、私は一つの傾向に気づきました。
具体的な描写を置く
↓
そこから意味が立ち上がる
↓
さらに語り手が、その意味を言葉にする
という構造です。
「身体の内部に沁み込む」→「強い」
「白いTシャツ」→「強烈に光を反射する」
「しょっぱいけど美味しいと言う」→「嘘をついた」
仲野の態度→「自惚れている」
いずれも、前半だけでもある程度の意味を読み取ることができます。
それでも語り手は、読者が最後の一歩を踏み出す前に、その意味を言語化してくれる。
これは必ずしも欠点ではありません。
人物の思考を細かく追跡する小説なら、その「説明する意識」そのものが人物造形になることもあります。
しかし頻繁に繰り返されれば、読者は、
「そこは自分で読み取りたかった」
と感じることもあります。
川端康成との違い
直前まで『雪国』を精読していたため、この違いを余計に強く感じたのかもしれません。
川端康成には、
「月はまるで青い氷の中の刃のように澄み出ていた。」
という文章があります。
ここで川端は、
「つまり月は冷たく鋭く見えた」
とは説明しません。
青い氷と刃という像を置き、その意味を読者に預けます。
又吉の文章には、それとは反対に、像を提示したあとで、その像が何を意味するのかまで言葉にする傾向があるように感じました。
これは優劣というより、読者との距離の取り方の違いでしょう。
川端は読者を像の中に置いていく。
又吉は読者を像の中へ連れていき、さらにその意味まで一緒に確認する。
ただ私は、小説を書く立場から考えると、ときには最後の一歩くらいは読者に歩いてもらってもいいのではないかと思います。
描写によってすでに伝わっているのなら、説明しない勇気を持つ。
文章を削るということは、単に文字数を減らすことではありません。
読者に渡す仕事を増やすことでもある。
今回の精読から、そんなことを考えました。
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