又吉直樹『人間』を読み終えた。
この作品を読みながら、私は何度も文章の細部で立ち止まった。比喩が長すぎるのではないか。心理を説明しすぎているのではないか。読者がすでに理解できることを、語り手がもう一度言葉にして回収しているのではないか。
しかし最後まで読むと、こうした一文単位の違和感とは別に、作品全体について大きな引っかかりが残った。
それは、登場人物を読んでいるはずなのに、途中から又吉直樹本人を読んでいるような感覚が強くなってしまったことである。
芥川賞を受賞した芸人作家「影山」
作中には影山という人物が登場する。
芸人でありながら芥川賞を受賞し、その後も小説を書いている人物として描かれている。
この設定を読めば、当然、作者である又吉直樹を連想する。
もちろん、だからといって、
影山=又吉直樹本人
と単純に決めつけることはできない。
小説の登場人物は、現実の人物を素材にしていたとしても、作品の中では独立した人物である。影山の発言をそのまま「又吉直樹本人の本音」として読むのは危険だろう。
それでも、ここまで作者自身の経歴を強く想起させる設定を置けば、読者が現実の作者を重ねて読むことは避けにくい。
そして、その問題が最も強く現れるのが、仲野太一による影山批判と、それに続く展開だった。
批評なのか、それとも嫉妬なのか
作品では、影山に対する仲野の批判が大きな問題となっていく。
そこで問われるのは、単に「批評の内容が正しいか」だけではない。
成功した表現者を攻撃することで、自分を文化的な人間として演出しているのではないか。
作品批評を装いながら、実際には成功者に対する嫉妬や攻撃性が含まれているのではないか。
そうした、批評する側の動機そのものに視線が向けられていく。
この問題自体は非常に面白い。
人は、自分で説明している理由だけによって行動しているとは限らない。
「作品が嫌いだから批判する」
その言葉の奥に、
「成功した相手が気に入らない」
「批判できる自分を知的に見せたい」
といった別の欲望が潜んでいる可能性もある。
『人間』では、このような動機の不純さを執拗に掘り下げていく。
『人間』では、人の感情が何度も疑われる
考えてみると、この構造は終盤になって突然現れたものではなかった。
たとえば、誰かに心酔しているように見える人物についても、
本当にその人物を尊敬しているのか。
それとも、注目されている人物のそばにいる自分に酔っているのか。
という疑いが差し込まれる。
主人公自身についても同じだ。
苦しむ。
しかし、そこで終わらない。
苦しんでいる自分を意識する。
さらに、
「芸術家の苦悩を気取っているだけではないか」
と、そんな自分まで疑う。
つまり、
感情
↓
その感情を抱いている自分を見る
↓
その自分の動機まで疑う
という三段階の構造が何度も現れる。
これは又吉作品の自意識を描く鋭さでもある。
しかし、読み続けていると少し疲れてくる。
感情が、そのまま感情として着地することが少ないからだ。
作者自身を連想した瞬間、問題が変わってしまう
そして終盤、その「動機を疑う視線」が、芥川賞を受賞した芸人作家への批判に向けられる。
ここで私は、それまでとは違う読み方をしている自分に気づいた。
それまでは、
「この人物はなぜこんなことを考えるのだろう」
と読んでいた。
ところが影山をめぐる議論になると、
「又吉直樹は、自分に向けられた批判についてどう考えているのだろう」
という読みが入り込んでくる。
ここが私には惜しかった。
虚構と現実が重なること自体が悪いわけではない。
私小説をはじめとして、作者自身の経験を強く反映した優れた小説はいくらでも存在する。
問題は、作者の現実が前景化することで、登場人物が独立した人間として見えにくくなったことである。
影山の反論を読んでいるのか。
又吉直樹の反論を読んでいるのか。
その境界が揺れ始める。
すると、小説世界への没入とは別の意識が立ち上がってくる。
「公開反論」に見えてしまう危険
私は、この部分を読んでいて、一種の「公開反論」のようにも感じた。
ただし、ここは慎重に書いておきたい。
実際に又吉直樹が、自身への批判や嫉妬に反論する目的でこの場面を書いたのかどうかは分からない。
作者の意図を作品だけから断定することはできない。
問題なのは作者の真意ではなく、読者である私に、そのように読ませる構造になっていることだ。
影山の設定が作者自身を強く想起させる。
その影山に対する批判者の攻撃性やしつこさ、陰湿さが掘り下げられる。
さらに批評する側の自己顕示や動機まで問題になる。
これらが重なることで、
「これは登場人物同士の問題なのだろうか。それとも作者自身の経験について語っているのだろうか」
という疑問が消えなくなった。
その瞬間、私にとって小説の焦点が少しずれてしまった。
作品内で他人の文章を批判することの危険
さらに興味深かったのは、『人間』そのものが作中で文章や比喩を批評していることである。
仲野の比喩について、「すでに理解している状況を、わざわざ自己満足で喩えるな」という趣旨の批判が登場する。(参考:83頁)
別の文章についても、
「絶望的なつまらなさ」
と厳しい評価が下される。
しかし、ここには危険がある。
作中で他人の文章を評価する物差しを提示すれば、読者はその物差しを作品そのものにも使うからだ。
「その比喩は本当に必要なのか」
と登場人物に言わせれば、読者は『人間』に登場する長い比喩についても同じことを考える。
「その文章はつまらない」
と批判すれば、読者は当然、『人間』自身の文章にも同じ厳しさを要求する。
作品内批評とは、他人だけを斬る刀ではない。
抜いた瞬間、その刀は作者自身の文章にも向かう。
細部で感じていた違和感が、作品全体につながった
ここで、読みながら感じていた細かな違和感が一つにつながった。
『人間』には、とても鋭い表現がある。
特に印象に残ったのが、
「お気に入りのTシャツを着てきたことが、恥ずかしかった。」(29頁)
という一文だった。
ここでは、自分が芸術に対して抱いていた気負いや、自分を演出していたことへの羞恥を長々と説明していない。
「お気に入りのTシャツ」という具体物に心理を着地させる。
だから読者が意味を発見できる。
一方で作品には、
「情けなくなった」
「吐き気さえした」
「絶望的なつまらなさ」
といった、感情や評価を直接言葉にしてしまう箇所も目立った。
長い比喩によって心理を説明する場面もある。
つまり、
描写する
↓
読者が意味を感じ取れる
↓
さらに語り手がその意味を説明する
という構造が繰り返される。
私はこれを読みながら、
「読者に最後の一歩を歩かせない文章」
だと感じていた。
そして終盤では、この傾向が文章単位ではなく、作品全体にも現れているように感じた。
自意識を描く小説が、作者自身の自意識へ近づきすぎる
『人間』で最も興味深かったのは、やはり自意識の問題だった。
人間は、自分が思っているほど純粋な理由だけで行動していない。
他人を好きになることにも、芸術を語ることにも、批評することにも、自分をよく見せたいという欲望が入り込む。
その不純さを見る視線は鋭い。
だからこそ惜しい。
終盤、その視線が「芥川賞を受賞した芸人作家」をめぐる問題に接近しすぎたことで、私は登場人物より作者本人を意識するようになった。
その結果、
人間一般の自意識を描いていた小説が、又吉直樹自身の自意識について語る小説へ縮んで見えてしまった。
もちろん、それを私小説的な面白さとして評価する読み方もできるだろう。
しかし私は、そこで少し作品から醒めてしまった。
小説では「誰が語っているのか」だけでなく、「誰を意識させるのか」も重要なのかもしれない
『人間』を読み終えて、そんなことを考えた。
作者自身をモデルにした人物を登場させることが問題なのではない。
作者の経験を小説に持ち込むことが問題なのでもない。
重要なのは、それによって読者が、
登場人物を見るのか。
作者を見るのか。
ということなのだと思う。
私は『人間』の自意識を描く鋭さには何度も惹かれた。
一方で、その自意識を説明しすぎ、さらに作者自身を強く想起させる人物を通じて「批評する側の動機」まで掘り下げたことで、作品世界と現実の又吉直樹との距離が急激に縮まったように感じた。
そのとき私は、影山を見なくなっていた。
又吉直樹を見ていた。
それが、この作品を読み終えたときに残った、私の一番大きな違和感だった。
小説では、作者が伝えたいことと、読者が実際に受け取るものが一致するとは限りません。
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